前の項目で「野戦重砲兵第15連隊」の
行動記録を書きました。
ここでは別の部隊「第13師団山田支隊」の
記録を転載します。
2015年と2018年の2回、
日本テレビ系列のBS日テレや
NNNドキュメントでこの部隊のことを放映しました。
かなり詳しい内容でよく調査されていました。
この資料が出版されたのは
1996年3月14日ですから、
テレビ放映の19年も前になります。
「第13師団山田支隊の記録」
南京に近くなった12月11日、
中国軍の退路を遮断する為に
上海派遣軍は第13師団に支隊を編成しました。
山田支隊です。
福島在住の民間研究者「小野賢二」氏は
1990年頃からこの山田支隊に所属した
歩兵第65連隊と
山砲兵第19連隊第3大隊兵士の
陣中日記、戦闘日記や
出征日誌等の調査を始め、
1996年に調査資料を
「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち・大月書店」
として出版しました。
その結果全ての捕虜は虐殺された事が分かりました。
ほとんどの日本兵は
仮名となっていますが、
大変重要な証拠資料なので掲載します。
資料は山田支隊に所属した
次の2つの部隊に所属する兵士の日記です。
◎歩兵第65連隊
(若松 連隊長 両角業作大佐)の3つの大隊
◎山砲兵第19連隊
(越後高田 連隊長 横尾濶中佐)の第3大隊
「当時の新聞記事」
まず当時の新聞の内容です。
読みやすく漢字等を修正、不明の字は○にしました。
● 東京朝日新聞 号外 1937年12月16日
☆両角部隊大武勲
敵兵一万五千余を捕虜
(南京にて横田特派員15日発)
鎭江から揚子江岸を強く進撃した
両角部隊は13日烏龍山、
14日朝幕府山2砲台を占領したが、
その際南京城から雪崩を打って
敗走して来た第18師、88師
及び軍官学校教導総隊等
総数一万四千七百七十七名の敵軍と出会い、
敵は白旗を掲げて降服、
両角部隊は寡兵をもってよく
一万四千余の全部を捕虜とする大武勲を樹てた
● 東京朝日福島版 1937年12月17日
☆おゝでかした両角部隊
捕虜一万五千とは
何と凄い武勲だ
県下に又々歓喜爆発
「両角部隊大武勲敵兵一万五千余を捕虜」の
快ニュ-スが昨16日朝、
本社特電によって報道されるや
全県下ははち切れれんばかりの
爆発的歓喜に包まれ
「でかしたでかした」と出征家族の門前には
感謝感激の日の丸が躍り出で
町といわず村といわず、
この日の丸の下で譬へようのない
喜びの挨拶が交はされ学校では
早速教室で教材に取り上げられる。
生徒児童の万歳の爆発となり
県○初め官庁銀行会社等も
この快ニュ-スで仕事も手につかない有様
「白旗を立てゝ降参するに至れり・・」とは痛快だ、
思ひ切って一人残らず屠殺してやればよいのに、
と老若男女一様に南京陥落の祝賀の興奮
消えやりぬ胸を再び沸き立たせ、
同夜各家庭の晩餐は心からなる
祝杯と万歳の声で大賑わいだった
● 福島民友新聞 1937年12月17日
☆両角部隊大殊勲
一万五千の敵を捕虜
燦!幕府山砲台占領
南京にて15日発
さきに○山の堅塁を抜き鎮江を経て、
揚子江岸を長躯進撃した両角部隊は
13日には烏龍山、
14日朝は南京の北方幕府山の
両砲台を占領したが、
その際南京城内から
雪崩を打って敗走してきた
第18師、第37師、第34師、
88師及び軍官学校、教導総隊等
総数一万四千七百七十七名の敵軍と出会い、
敵は白旗を掲げて両角部隊の軍門に降り、
同部隊は寡兵よくこの大敵軍を
捕虜とする無比の殊勲を樹てた
次は実際の兵士の日記等を書きます。