三光作戦は1940年後半から始まり、
41年から本格化し、
41~43年頃ピ-クをむかえています。
1938年、武漢や広東への攻略戦が終わると、
日本軍はこれ以上戦線を拡大しないようにし、
長期持久戦に移行することを決めました。
そして北支那方面軍に対し
黄河の東部分(河北省、山東省、山西省・・・・)を
治安区域として確保する命令を出しました。
●1938年12月2日 大陸命241 (注:大陸命は天皇の直接命令)
それにもとづき北支那方面軍は
1939年4月「治安粛清要綱」を発令し
徹底的に治安地区の粛清に乗り出すことになりました。
しかしそのころはまだ共産軍を侮っていて
国民政府軍や地方軍閥を対象にしていました。
ところが1940年に
八路軍の百団作戦(100個連隊と言う意味です)と
言われる総攻撃を受けました。
予想もしていない奇襲攻撃で
日本軍は大きな損害を蒙りました。
百団作戦は1940年8月20日からの第1次攻勢と
9月22日からの第2次攻勢があり、
日本軍の警備隊、鉄道、通信施設に対する奇襲攻撃でした。
共産軍と民衆の攻撃を受けた日本軍は反撃を開始し、
これからがいわゆる三光作戦と呼ばれる時期に入るのです。
1941年1月に北支那方面軍は兵団長会議を開き、
軍司令官多田駿中将は
「軍の努力を共産軍に集中するよう」と訓示しています。
1941年7月に北支那方面軍は「粛清計画3ケ年計画」を発表します。
三光作戦の本格化です。