陸軍労務報国会下関支部動員部長だったとされる吉田清治氏が
「朝鮮人慰安婦と日本人(新人物往来社)」を刊行したのが1977年です。
その中で吉田氏は済州島で軍命により女性を強制連行したと告白しました。
その後1983年に済州島で200人の女性を拉致したとの証言集
「私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行」を三一書房から出版し、
自費で謝罪碑を建てる為に訪韓し土下座をして謝罪しました。
その年1983年11月に朝日新聞がこのことを紹介し他の新聞社も追従しました。
証言集が出された後、1992年3月、
歴史研究者秦郁彦氏が実地調査のため済州島に入り、
結果として証言には根拠がない、
つまり捏造であると産経新聞や正論に発表しています。
2014年8月5日と6日に朝日新聞がこの吉田証言は信憑性がなかったとして、
記事を取り消し、当時取り上げたことを謝罪しました。
その謝罪記事(?)が大波紋を起こし、
「河野談話」を見直すべきだ、
さらに慰安婦そのものがなかったなど、朝日新聞攻撃が始まったのです。
では吉田清治証言集の信憑性について真実はどうなのでしょうか?
歴史研究家の上杉聰氏が中央大学の吉見教授と共に吉田清治氏と対談しています。
その時の内容を書いた文章です。
●上杉聰 歴史地理養育 1997年1~2月号
・・・・吉田氏がこれらの批判に反論していないのも事実です。
私は、吉見義明・中央大学教授と共に直接お会いして(1993年)
反論を勧めたことがありますが、
態度は変わりませんでした。
その場で、私たちが様々な質問をしたところ、
証言に決定的な矛盾は見当たりませんでした。
ただし、時と場所が異なる事件を、
出版社の要請に応じて一つにまとめたことを話してくれました。
したがって、吉田証言は根拠のない嘘とは言えないまでも、
「時と場所」という、歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、
証言としては採用できないというのが私の結論ですし、
吉見教授も同意見と思われます。
国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、
その報告書の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためでした。
それでは実際に上杉氏たちが吉田清治さんから聞き取りをした
内容はどのようなものでしょうか?
聞き取りは1993年5月24日、千葉県我孫子市の喫茶店ポエムで行われました。
参加者は、吉田氏本人と上杉聰、吉見義明、川瀬俊治の3名です。
季刊戦争責任研究第33号の上杉論文から転用します。
●聴き取り内容
質問:吉田さんが厳密な意味で自分が体験されたこと、
それプラス(出版社に言いわれて)色んな人たちの聴き取りも
合わせたりしておられるわけですよね。
そのあたりの区別をしていただければ・・・・
答え:わかりました・・・・20年ばかり前の話でしてね。
日本の社会でそんなことが世間で一切忘れられているときで、
在日朝鮮人・韓国人への差別ついて喋ったりなんかして、出版社が本を書けと・・・・
筑摩書房とか、新人物往来社も来たんですね。
それで「ぜひ」とか言い出してですね、ええ・・・・
60歳になって、もう子供たち何とかなったから、
個人的な生活面で勉強しようと思ったんですね・・・・
そういう環境の時に書き始めて、それで、
昔の連中が東京・横浜、何人もたくさんいましたからね。
総務府の色んな連中とか、内務省とか、まあ色んな連中が、
けっこう戦後、現役で各界におるわけですね。
そういう連中、それを旧部下たちが、
あの山口県の湯田温泉に年に1回ずつ行ってたら
4~5日滞在すると次から次へと皆が集まって・・・・
旧部下たちが、20年前だから、やはり皆懐かしいわけですよ。・・・・
年寄りが同窓会みたいに集まって・・・・
質問:労務報国会の同窓会ですか?
答え:労務報国会というより、その(徴用)業務をやってた連中ですね。
総督府とか警察とか、それからいろんな炭鉱関係で人事の責任者とか、
軍需工場の人事担当の連中ですね。
山口県から大阪府、いろんなところにいますね。
ところがこの連中が当時恐れたのは・・・・
満州から引き揚げるとき・・・・日本人はもう大変だったんですよね。
1年ばかりの間にそれこそ野宿しながら逃げ回って、
家族も虐殺にあったりしてるわけですよ。
北朝鮮で警察官だった者は、みんな自分の任地からどこか他に行ってます。
終戦と同時に逃げて。ところが警察署長とか逃げられないですね。
家族も、ひどい例は、警察署長を素っ裸にしてですね、
縄で一糸もまとわぬ姿で街中繰り出したり、
そして警察官を見つけると、まあ半殺しにするなんかして、
ソ連の軍の方に引渡して、真っ先にシベリア行きですね・・・・
そのとき警察官だったということは顔も売れてますから・・・・
そういう目にあっている私の関係した連中は、山口県に帰ってきた連中は、
朝鮮人徴用にちょっとでも関わったということは死ぬまで喋らない。
質問:ああ~
答え:これは厳重なものですよ。だって・・・・
戦後もう20年以上経っているんですよ、その時。
みんな子どもやなんかちゃんと山口県で育てて、
きちんと事業をやったり、なんかまあ社会基盤も持ってて・・・・
山口県にはやはり朝鮮人がいる。その怖さ、その怖さで誰も証言しない。
だからマスコミが、もと労務報国会の関係者を、
なんぼ山口県中の地元新聞が徹底的に調査しても、
誰も「いや関係ない」「そんな仕事してなかった」、全部隠蔽してるんですよ。
その頃この本を(私が)出す。
だから、推定できる書き方はできないわけですよ。
これはあの人のことだと、わかるように書けないですよ。
そういう態度がまず必要なんです。基本的に。
今ならですね、「なぜ事実を書かないか」、
事実を書けるわけがわけがない・・・・
調べたら、あそこのおじいちゃんだと、すぐ特定できるんですよ。
経歴調べたりなんかすればね。
だから絶対に秘密にして本を出すために、
そうした脚色しなけれりゃならんかった、いうことなんですよ。・・・・
徴用に関わるもの・・・・そういう連中が(湯田温泉で)自然に、
定期的に会ってたから、それで本を書くといって、
2~3年ぐらい皆と共同で記録残そうじゃないかと(私が)言ったのに対して、
自分たちの名前から(何から)一切わからんようにしろ、
その代わり協力する、と言って数人の者が、
色んな名目なんかで手紙を書いてくれたり-何回もですね、
そういう連中が今生きている。
それを証人で出せないんですよね。・・・・
以下省略
これらの内容を整理すると、吉田清治証言の内容は
合っているが、時間と場所は諸事情によって変えてあるということになります。
これを私たちがどう判断するかです。
少なくともいくら内容が正しくても歴史資料としては使えない、
つまり採用されないということになるでしょう。
その後上記上杉調査の影響でしょうか朝日新聞は方針を変えています。
1997年3月3日特集記事を組み、姿勢を転換し「真偽は確認できない」としました。
その後朝日新聞はこの吉田証言を取り上げていません。
これは2014年8月5日の記事の通りです。
1997年時点で真偽は確認できないとして終わったことを
なぜ再び謝罪のような記事を書いたのかは不明です。
会社内部の事情があったのかもしれませんが、
ジャ-ナリストとしてはむしろ謝罪するより、逆に慰安婦問題に関してきちんと検証
或いは再調査するべきではなかったのではないでしょうか。