当時南京事件を多くの外国人のジャ-ナリストが
新聞で世界中に報道していましたが、
その中にイギリス「マンチェスタ-・ガ-ディアン」の
ハロルド・ジョン・ティンバリ-がいます。
一部にはそのティンバリ-が
国民党中央宣伝部の顧問だったことから、
彼の報道は宣伝が多くインチキ臭く
南京事件は信用できないと主張している人もいます。
そこでその事について説明します。
1935年11月国民党第5回全国大会のあと
中央宣伝部のもとに国際宣伝処が設置されました。
南京陥落後、処長になった「曾虚白」は
宣伝計画書の中で3つの原則を掲げています。
1. 絶対に嘘を言って人を騙たり、
誇張して誤魔化してはならず、
事実に基づいて本当のことを言ってこそ
人を動かすことができる
2. 敵の残虐さを暴露し、これを広く宣伝して
国際的な同情と援助を獲得するようにする
3. 共同抗敵の連合戦線を作るようにする
日本による侵略を何とか食い止めたい中国としては、
世界にむけて信頼のおける正確な情報を
発信する必要があったのは当然のことでしょう。
当初本部は南京にあり、
その後1937年に武漢、
1938年に重慶に移転しました。
組織は 英文編撰科・外事科・対敵科・総務科の4科と
対敵宣伝研究委員会・ニュ-ス写真室から
なっていました。
重慶の本部のほか
上海・香港・ロンドン・ニュ-ヨ-クに
事務所をもっていました。
(当初はもっとあった)
ハロルド・ジョン・ティンバリ-は
1938年に「戦争とは何か」という
南京事件の資料集を出しています。
そのティンバリが国際宣伝処に関係し、
その本が国際宣伝処から出版されたことから、
関係者が書いたので中国に都合が良い
でっち上げ本だと主張しているのです。
しかしどこの国にも外国人の顧問や協力者がいます。
また宣伝処という言葉が
何か信用できないように思われますが、
政府広報室と言い換えれば受け取り方も変わります。
協力者だからということと、
書いた本が嘘だということは別のことです。
事実はティンバリ-宣伝処の顧問になったのは
1938年7月という説と
1939年にマンチェスタ-・ガ-ディアンを
辞任してからだという説がありますが、
いずれにしても顧問になる前に本は書かれていました。
ティンバレ-と友人ベイツの手紙のやり取りによれば、
出版には欧米の色々な出版社が予定されていて、
最終的に1938年4月12日のティンバレ-の手紙では
ロンドンのゴランツ社から6月に
出版する予定にしていると書かれています。
それが出版資金か何かの理由で
中国の国際宣伝処が版権を買って出版したのが事実のようです。
(国際宣伝処27年度工作報告)
いずれにしても国際宣伝処に入る前のことです。
☆「ティンバリ-は国民政府の宣伝員だった」と
発表したのは北村稔氏だといわれています。
北村稔「南京事件の探求 その実像を求めて」(文春新書)には
・・・・英文史料には国民党の戦時対外宣伝政策に由来する
偏向が存在するはずだと考えた。
しかしティンバリ-の“WHAT WAR MEANS”「英文中国年鑑」など
代表的な国民党の戦時対外刊行物には、
予想に反し事実のあからさまな脚色は見いだせなかった・・・・
北村氏でさえ事実のあからさまな脚色は
見いだ出せなかった、としているのに、
南京事件を否定する人たちは、
宣伝所に所属したから南京事件はウソだ主張しているのです。