鹿島花岡作業所で働かされた
中国人や、北海道の山中を逃げ回った劉連仁さんは、
日本政府や企業を相手に
裁判を起こしていますが、
その後も提訴は続きます。
●1997年9月18日、
42名の中国人が国と企業9社を相手に
裁判を起こしました。
(株)間組に対して 8名
古河機械金属(株)に対して 3名
西松建設(株)に対して 5名
宇部興産(株)に対して 1名
同和鉱業(株)に対して 7名
日鉄鉱業(株)に対して 3名
飛島建設(株)に対して 4名
(株)ジャパンエナジ-に対して 3名
注:日本鉱業のこと
三菱マテリアル(株)に対して 8名
注:三菱鉱業のこと
(訴えの内容)
1 マスコミに謝罪広告を出すこと。
朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、
産経新聞、日本経済新聞、その他中国紙
2 一人2000万円の賠償金の請求
3 未払い賃金の支払い
(訴状の内容)
間組に対する裁判の訴状から抜粋しました。
訴えている中国人は8名です。
李万忠 1926年生まれ
未払い賃金の請求額 2,405円
宋樹芝 1921年生まれ 同上 2,375円
許徳明 1920年生まれ 同上 2,375円
何成彦 1919年生まれ 同上 2,375円
李樹槐 1931年生まれ
連行当時12歳 同上 2,045円
以下省略
(訴状にみる作業の実体)
移送:
300人から400人の中国人は
貨物船の一番底の船倉に詰込まれた。
座らされたままの状態で輸送された。
船中の食事は糠の団子を
1日2食支給されるだけである。
衛生状態も悪く、身体中に虱がわいていた。
船中で病気になるものや死亡するものが出た。
病人に対しては何の処置もせず、
そのまま放置された。
死亡者については死体を
海の中に放り投げて処理をしていた。
労働:
水力発電所建設の為の
トンネルを作る仕事に従事した。
昼夜の2交代制で12時間労働だった。
ノルマが課せられ達成できないと
暴力による制裁を受けた。
休憩も一切許されず、
高熱が出ても殴る蹴るの制裁を受けた。
暴力は日常茶飯事だった。
落盤事故で怪我をしても暴力を受けた。
宿舎:
床は木の板が敷かれ、
寝具も支給されず、
設備らしい設備は一切なかった。
詰込まれて横になって寝ることが出来ず、
膝を曲げて寝るしかなかった。
屋根は1枚渡してあるだけで、
雨が降ると雨漏りが激しく、
昼間は屋根から日差しが当り、
冬には中に雪が舞い込んだ。
服も寝具も支給されなかったので、
冬は身を寄せ合って体温で寝た。
外には巡査が常駐し監視していた。
被服:
着ていた服は日本に来る時には
ボロボロになっていた。
桑の木の皮で作った服が支給された。
ひどい服だった。
布製の服は一切支給されず
夏に褌が1枚支給されただけだった。
事業所に落ちている
紙や麻袋を拾い上げて着用した。
食料:
1日3食あったが、
内容はコウリャンと糠で作った
饅頭を2ケ支給されただけだった。
飢えをしぐため雑草を食べた。
ほとんどが栄養失調だった。
水の支給は一切なく雨水や
作業場の流水を飲んだ。
衛生:
入浴は一度も許されなかった。
蚤や虱で皮膚病が続出したが医療はなかった。
怪我や病気でも
暴力を受けて無理やり働かせられた。
監禁:
耐えかねて逃亡しても失敗した。
捕まった時は仲間の前で見せしめに虐殺された。
その内逃亡もしなくなった。
賃金:
労働条件の話など聞いた事もない。
賃金は一度も貰った事がない。
通帳に預金されたこともない。
本国への送還時にもその後でも貰っていない。
注:訴状では1日5円として
労働日数分の請求をしています。
●1997年12月22日、
長野県に連行された
7名の中国人が訴えを起こしました。
長野県へは延べ3,700人位の
中国人が連行されています。
被告は国、間組、飛島組、鹿島建設、大成建設です。
請求内容は前記訴訟とほとんど同じなので省略します。
●1998年1月16日、広島地裁に5名が西松建設を提訴
●1998年8月14日、京都地裁に6名が日本冶金と国を提訴