私たち日本人は戦争の悲惨さについて、
日本に起こったことを中心に考えてしまいます。
広島や長崎の悲劇、空襲の被害、疎開のつらさ・・・・
しかしその悲しみは被害者の立場としてだけです。
何度も繰り返しますが、
戦場になったのは日本ではありません。
(最後に沖縄が戦場になりましたが)
アメリカを始めとする
連合国軍との戦争でしたが、
戦場は中国大陸や東南アジアでした。
そこで日本軍がどのような戦争をし、
どのような被害を現地の人に与えたのか・・・・と、
私たちは恐らく考えないでしょう。
戦後の日本の平和教育は
「被害者として戦争は悲惨だった」ということで、
「加害者として反省する」と言う視点はありませんでした。
日本の法廷で戦争責任者を
1人も裁いていないのですから
仕方がないのかもしれません。
(東京裁判は日本が自発的に開いたものではありません)
さらに戦争でいわゆる外地に行った軍人は
沈黙を守り、戦争で何をしたのか伝えなかったからです。
侵略戦争の事実を知らない戦後の私たちは、
被害者の立場で原爆の悲惨さを訴える為に
アジア各地で原爆展を開いています。
それを見たアジアの人々の反応はどうでしょうか?
●1988年8月、
5人のマレ-シア人が広島を訪れて
被爆者と交流を持ちました。
マレ-シアの人たちは原爆の悲惨さに
ショックを受けながらも
交流会の中で次のように話しています。
「マレ-シアの人々が
何故虐殺されなければならなかったのか」
「南京、マニラ、マレ-などで虐殺が行なわれなければ
原爆は落とされなかったはずだ」
「原爆がなければマレ-やアジアの
犠牲者がもっと沢山出ていたと思う」
「原爆がなければ自分は殺されていて、
こうして日本へ来ることも出来なかっただろう」
●フィリピンで立教大学が
主催している海外体験学習の際、
広島の「にんげんをかえせ」という
映画を見た地元高校生のアンケ-トから
「にんげんをかえせ」は
日本で起きたとても信じられない事だった。
それは第2次世界大戦の時
誰も日本を止められなかったからだ。
最も強い国ですら止められなかった。
太平洋の島々を日本は占領した。・・・・
だから国際連盟は
ナガサキとヒロシマに原爆を落とした。
だから多くの人が死んだし
土地すら役に立たなくなった。
今ですら被害者が泣き苦しむのは日本のせいだ。
「にんげんをかえせ」にどうして日本人は泣くのだろう。
●香港の陳炳財さん 石田甚太郎氏の聞き取り調査から
なぜ広島に原爆が落とされたか知っているかい?
あれはあんたたち日本人がやらせたんだよ。
アジアの国々を占領して、
ひどいことをやっていじめたからだよ。
その仕返しなんだよ。
あの原爆が落ちた時には、
小躍りして喜んだもんだよ。
あれが落ち、日本が早く負けたから
多くの人たちが助かったんだ。
●J・ミッチェル 香港で捕虜になったイギリス兵
広島・長崎の犠牲者にはすまないと思うが、
戦争が早く終わって良かったと思ったよ。
あの戦争が長引いたら、
中国や東南アジアの人、それに日本人も、
もっと沢山の人たちが犠牲になったと思う。
振り返ってみると日本人も戦争で苦しんだに違いない。
だから私は、戦争になると被害国の人は勿論のことだが、
加害国の人たちも、殺されたり傷ついたり、
同様に苦しんだと思っている。
このようにアジアの人々は
原爆投下をアジアを解放してくれたものと
受取っている人が多いように思われます。
私たち日本人が原爆や沖縄戦で
日本が戦争の被害者だったとだけ訴え続けている間は、
アジアの人たちとの心の溝は埋められないでしょう。
私たちが被害者であるなら、
むしろ戦争を起こした自らの国家と戦争指導者に対する
責任の追及をきちんとするべきでしょう。
そうして始めて国家が犯した戦争犯罪によって
日本でも中国でもアジアでも、
苦しんだのは一般民衆なのだと言う
共通の理解が得られるでしょう。
2000年5月に天皇がオランダを訪問した時の
オランダ女王のスピ-チにその心が込められています。
●スピ-チ抜粋 2000年5月25日朝日新聞
第2次世界大戦は、両国民の間に深い溝を生みました。
多くのオランダ人が命を失い、
また多くの人がその体験を引きずり続けています。
日本国民もこの痛ましい戦争の恐ろしい
結果に苦しめられました。
戦争の苦しみの記憶は消え去りません。
繰り返し繰り返し戻ってきます。
だからこそ、私たちが共有する歴史の
つらい一章から目を背けてはならないのです。
それが、どんなに勇気が必要なことだとしても。・・・・