1942年3月9日、
オランダ軍の降伏でインドネシア各地を占領した日本軍は、
当初50,000人以上の兵力で軍政を敷きました。
しかし1942年6月のミッドウェイ海戦で大損害を受けた後、
アメリカの攻撃に備えるため、
ジャワから日本兵がどんどん前線に送られました。
その結果インドネシアには戦闘部隊8,000人と、
後方部隊や軍属が17,000人位になってしまいました。
5,000万人近い人口を抱えるジャワの統治に無理が生じました。
またオ-ストラリアからの
攻撃にも備えなければならなくなました。
さらに日本兵が大量に戦死する事を防ぐため、
現地インドネシア人を組織して兵補とする計画が作られました。
これがヘイホ(兵補)です。
兵補制度は1943年に正式に法制化されました。
全兵器が使用できるように訓練され、
日本軍の補助部隊として組織されました。
●大本営参謀総長の指示 1942年6月
南方要塞においては、
日本軍の任務達成を容易ならしむるため
所要の武装団体等を育成する事を得・・・
●兵補規定 陸亜密2626
1942年9月23日 陸軍省制定 原文カナ
第1章 省略
第2章
第3条
兵補は帝国臣民に非ざる男子にして
兵補志願者中最高指揮官の規定する採用試験に
合格する者より之を採用す
第3章 身分取扱及び階級
第6条
兵補の身分は軍属に準じて之を取扱うものとす
●兵補規則施行細則 1943年4月22日 南方軍発令
注:これによって兵補の採用は公式になった。
正確な資料がないので要点のみです)
第1条 日本国民ではない18歳から30歳までの男子
第2条 募集担当は南方軍の各軍(ジャワは第16軍)
第3条 採用は4月と10月の年2回
第5条 試験は3月と6月
第10、11条 教育期間は約6ケ月、
日本兵を教育するための手引をそのまま使用
第12条 軍人勅諭に従う
第15条 日本の軍人、軍属に対して敬礼する義務
第17条 休暇は軍人休暇令を適用
第19条 兵補の身分は軍属と同等とされ、入隊時宣誓も軍属と同じ
第20条 階級は日本兵の階級名を一部変えて使用
兵補と日本兵の階級名称対照及び昇級までの実務期表
日本兵 | 兵補 | 昇級までの期間 |
曹長 | 一等班長 | - |
軍曹 | 二等班長 | 2年 |
伍長 | 三等班長 | 1年 |
兵長 | 組長 | 1年 |
上等兵 | 上等兵補 | 6ケ月 |
一等兵 | 一等兵補 | 6ケ月 |
二等兵 | 二等兵補 | 6ケ月 |
注:兵補の採用から日本の降伏まで約2年だった為
上等兵補より進級した兵補は少なかった。
第21条 原則として兵舎に居住
第25,27条 昇級の期間や手続きは日本兵と同じ
第41条 武器は銃剣1丁は小銃1丁
第43条 衣服は日本の下士官以下と同じ、左胸に日の丸をつける
第44条 給料は軍属と同等
兵補給与基準金額表(月額)
階級 | 最高 | 普通 | 最低 |
一等班長 | 一等級 | 1200 | 850 | 700 |
二等級 | 800 | 750 | 600 |
三等級 | 450 | 350 | 250 |
四等級 | 420 | 320 | 220 |
二等班長 | 一等級 | 400 | 300 | 200 |
二等級 | 350 | 250 | 150 |
三等級 | 300 | 220 | 110 |
三等班長 | 250 | 200 | 100 |
組長 | 200 | 150 | 80 |
上等兵補 | 150 | 100 | 60 |
一等兵補 | 120 | 90 | 40 |
二等兵補 | 100 | 60 | 30 |
注:給与の最高額の地域は、ビルマ地域、
普通地域は、マレ-、ボルネオ地域、タイ、
仏領インドシナ、オ-ストラリア北辺地域
最低地域は、ジャワ、スマトラ地域
兵補規定の第6条には
「・・・・軍属に準じて・・・・」となっています。
規定細則を見る限り、
実際には組織の編成、武装、訓練、階級、給与等
どれをみても日本軍の一部です。
日本兵の心得である軍人勅諭や戦陣訓も
日本語のまま暗記させられました。
まさに実質は天皇の承認を経た正規軍そのものでした。
ですから日本軍兵士に対する恩給等の補償を
兵補に適用することは当然のように思われます。
●参考までに
オランダの場合、1971年2月8日、
元オランダ植民地軍の軍人に対して
月額873ギルダ-から2,142ギルダ-の
恩給を支給する事にしました。
兵補の給料は建前上は日本軍兵士と同じように、
階級に応じて支払われていましたが、
内容は
1/3が強制的に郵便貯金として天引きされ、
1/3は郷里の両親に送られ、
残り1/3は軍票で支払うというものでした。
本人に支払う分でも色々な名目で天引きされたようです。
●スマトラの郵便貯金通帳には
現地語と日本語で下記のように書かれています。 原文カナ
「郵便貯金通帳」
1 郵便貯金預入金の払い戻しについては
大日本帝国がこれを保証します
2 郵便貯金預入金には毎年利子を附します
3 預金通帳に余白が無くなったとき又は亡失したとき或は毀損、
汚染の為不判明となったときは
郵便局に新通帳を請求して下さい
4 この貯金通帳は大切に保管してください
5 其の他詳しい事は大切に保管して下さい
「預金預入及び払戻しに就いての注意」
1 郵便貯金の一度の預入額は25銭以上です
2 郵便貯金の即時払戻には必ず2円50銭を残して下さい
3 高額の払戻には前日迄に郵便局に予告して下さい
4 記号番号金額氏名等の文字は特に正確に記載して下さい
5 代理人を以て払戻の際は詳く記載して下さい
1/3ずつ、貯金、送金、軍票ですが、
その通り実行されたのでしょうか?
まず貯金ですが、
日本が負けた時点で貯金通帳は紙屑ですから、
お金は戻ってきませんでした。
次に送金ですが、大多数は送金されていませんでした。
最後に軍票ですが、
支給されていても敗戦で紙屑になってしまいました。
ましてビルマに派遣された兵補には支給すらされていません。
つまり兵補たちは日本軍軍人として真面目に働いたのに
一銭もお金を貰っていないのです。
まるでサギです。
兵補の正確な数は不明ですが、
インドネシア全体で1944年に15,000人、
日本の降伏時に50,000人近くといわれています。
降伏時のジャワ島だけで、
日本兵15,000人、
兵補25,000人、
郷土防衛義勇軍37,000人となっています。
日本軍は兵力のほとんどを
インドネシア人に頼っていた事になります。
●元兵補中央協議会に登録された数
1991年3月時点25,000人
配属の内訳
ジャワ島 8,441人
ボルネオ、セレベス、ハルマヘラ 12,100人
ビルマ 2,800人
タイ、シンガポ-ル 1,750人
注:この協議会はその後
「元兵補従軍慰安婦連絡協議会」と名前を変えました。
インドネシアで最大の激戦地はモロタイ島だった為、
戦後1974年に日本政府は元日本兵の
遺骨収集と忠魂碑建立を行ないました。
勿論、日本兵の為だけで
現地の人のことを考えたわけではありません。
実はモロタイ島では兵補が801人戦死しています。
(注:行方不明も含む)
しかし日本の遺骨収集団は
インドネシア兵補の事は全く無視して、
これら兵補の遺骨まで全部日本に持ち帰って
千鳥が淵戦没者墓苑に納骨してしまいました。
この事で日本に対する不満が高まり、
元兵補の権利を守る運動が散発的に発生し、
1985年に元兵補中央協議会に集約されたのです。
→モロタイ島にいた某中隊では
720人の内、日本兵55人、兵補が665人でした。
日本の敗戦後、1945年8月18日、
第7方面軍直轄軍司令官会議は
「原住民軍隊解散命令」を発令し、
兵補は解散となりました。
●解散命令に基づく参謀長指示 1945年8月18日
1 義勇軍(兵補)の解散(解除)に当り、
解散せる「原住民」は各々その郷里に帰還せしむるものとする。
給与に関しては
イ.岡集団(注:第7方面軍)兵補義勇軍給与特例
及び昭南ジョホ-ル地区原住民軍隊整備規定に定めた
解除手当ての外、退職賞与として給料月額3ケ月以内を支給することを得
ロ.帰郷旅費として前項特例並びに規定に定むる
渡切航旅篭料及び旅行雑費を渡切するものとす
更に米、塩、砂糖10日以内を携行せしむることを得
ハ.現在装着せる被服(但し階級章・標識等は除く)は
そのまま支給することを得
8月20日には第16軍は
「軍は情勢の推移に応じ兵補を解散せんとし」という命令を出しました。
●上記に基づく参謀長指示
給与に関して
1 兵補解除に方りて公付すべきものは、
イ.退職手当として俸給月額の6ケ月分
ロ.被服、個人支給の分全部(寝具共)のほか、民需用衣料2着分
ハ.食糧、米、砂糖、塩 各10日分
ニ.需品、個人支給の分及び兵補用として
部隊に保存しあるもの全部(日用品は1回分)
このようにして兵補にはある程度の
手当てを支給されて解雇されたはずでした。
しかし実際にはジャワ島では公式な解雇通知も出されないまま、
8月18日から各出身地に戻され、
その後現在にいたるまで何の連絡もないのです。
勿論手当てはもとより何も貰っていません。
1991年8月に東京で開かれた
「アジア太平洋地域戦後補償国家フォ-ラム」に出席した元兵補たちは、
帰国前に声明を出しました。
●声明
・・・・その後の手続きとして正式な文書による
解雇通知が出されるのが当然の措置である・・・
多くのインドネシアの青年たちは、
日本軍の皇民化教育で、
アジアの指導者としての日本を信じて、
日本の軍人と同じような気持ちで戦ったのでしょう。
そして敗戦で日本に裏切られてしまったのです。
●元兵補の証言
・・・・私たちは天皇陛下のために死をかけて戦ったのです。
当時は日本人もインドネシア人も
区別なく、戦闘に参加し、死んでいきました。
日本が戦争に負けた事を知らされた時、
私たちは日本人と共に泣きました。
そしてそれぞれの村に帰るように部隊長から言われました。
その後、私たちには解雇通知もなく、
給料から天引きされた貯金も支払われていません。
一体どうなっているのでしょうか。
日本は私たちの存在を忘れてしまったのですか。・・・・
最後に参考として兵補の歌を2つ書きます。
原語はインドネシア語で兵補たちが歌わされた歌です
「兵補の歌」
日本の英雄、インドネシアの若人
力強く立ち上がれ、武器を取って
鉄のような精神と鋼鉄のような心をもって
連合軍を打ちのめすまで闘おう
アジアの守護神、日本兵のように
力強く進め
精神は燃え立ち、胸に炎は燃え広がる
我らを力づけ、魂を犠牲にして
アジアをまもる闘いに参加しよう
大東亜の幸福を勝ちとるために
アジアの守護神、日本兵のように
力強く進め
力強く勇敢なインドネシアの若人
喜んで、崇高なる広がりを破壊する
祖国全土を覆っている
燃えさかる嵐に逆らって
アジアの守護神、日本兵のように
力強く進め
「兵補をたたえる」マーチ 啓民文化指導所
1 聞け、聞け、喜びの歌
国民全体が君をたたえている
聞け、聞け、ニュ-スを聞け
兵補こそ英雄、われらの模範
2 聞け、英雄の靴音のとどろきが
戦場にこだまして
ひとりひとりの少年に
民族を守れと呼びかけるのを
3 聞け、聞け、国がたたえる
英雄たる君の犠牲がわれらと
大日本をして、敵を打倒させる
すべてのアジアの繁栄ののため