このレポ-トの目的は戦後私たちが
あまり知らなかった事実を中心に書くことにあります。
そして事実に基づく歴史認識を
私たち日本人の共通認識にしたいと思っています。
現在でもそう呼ぶ人がいますが、
昔は大東亜戦争と呼んでいました。
大東亜共栄圏を作るための戦争ということでそう呼んだのです。
アジアの資源を目的に中国への侵略を開始したのですが、
欧米諸国の猛烈な反発を受け、
日本は経済封鎖までされていました。
そこで中国侵略で疲弊した国家経済を建て直すために、
強引に東南アジアに新たな資源を求める計画をたて、
さらに中国を支援する何本ものル-トを絶とうとしたのです。
しかし戦争を仕掛ける理由がありません。
当時東南アジアの多くはアメリカ、フランス、
オランダ、イギリスといった西欧強国の植民地でした。
そこで日本は西欧からアジアを解放し
天皇の威光のもとでアジアの共栄圏を作るんだ、
そしてそのための戦争なんだという大義名分を掲げました。
これが「大東亜共栄圏」構想です。
そのせいでしょうか、
日本人には今でも戦後東南アジアの諸国が独立できたのは
日本のおかげである・・・・と信じている人がいます。
日本が侵略した結果、偶然戦後独立出来た例もあります。
これは放火をして全焼したから後で綺麗な家が建った。
放火のおかげだろうと主張するようなものです。
実際に日本軍が大東亜と言われる地域で
どの様な戦争をしたのでしょうか?
まず戦争とは言ってもアジアの国々とは
宣戦布告をしていませんから戦争ではなく
一方的に侵略をしたのだということ、
約3年半の間、宣戦布告をしていないアジアが
戦場だったのだということを踏まえていてください。
◎本当にアジア解放のための戦争だったのか-
アジアの人々の将来を思って戦ったのか?
◎日本軍が中国で行なった虐殺と同じ事が
アジアでは無かったのか?
◎日本は大東亜共栄圏という美辞麗句の通りの戦争をしたのか?
◎そして各国の独立に貢献し、戦後感謝されているのだろうか?
◎これらのことを考えるために、
戦争の中で起きた忌まわしい事件を
幾つか取り上げて考えて見たいと思います。
そしてそれらの事件を私たち日本人が知る事で、
アジアの人たちの本当の気持ちが、
つまり日本や日本人を本音ではどう見ているのかが
理解出来るのではないかと思います。
「大東亜共栄圏の構想 」
満州事変の立役者といわれた陸軍の石原莞爾は、
欧米列強の覇道に対決するものとして
「東亜連盟」という構想を唱えました。
目的として日本は欧米と戦争しても勝てない。
だから東亜連盟の名のもとに
アジアが一体となって欧米と戦争をする。
その為の「アジア民族解放戦争」をするという考えでした。
大東亜という呼び方が具体的に政治の場に登場するのは、
1940年(昭和15年)7月に
第2次近衛内閣が決定した「基本国策要綱」です。
●基本国策要綱
皇国の国是は八紘一宇とする肇国(注:国の始まり)の
大精神に基き世界平和の確立を招来する事を以って根本・・・・
皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする
大東亜秩序を建設するに在り・・・・(原文カナ)
◎八紘一宇
「日本書紀」で神武天皇の即位の時に述べたとされる。
四方と四隅合わせて八紘(世界の事)
つまり天下を一つの宇(家)とする。
つまり全世界を天皇の下に一つにまとめるという思想。
現代でも西村眞吾前防衛次官のように
「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」等と発言する人がいます。
時の外務大臣松岡洋右は
8月1日の記者会見で次のように述べています。
●東京毎日新聞 1940年8月2日
私は年来皇道を世界に宣布することが
皇国の使命であると主張してきた者でありますが・・・・
我が国現前の外交方針としては、
この皇道の大精神に則り、
まず日満支をその一環とする
大東亜共栄圏の確立を計らなければなりません。・・・・
更に進んで我に同調する友邦と提携、不退転の勇猛心を以って、
天より課せられたる我が民族の理想と使命の達成を期するべきものと・・・・
同時に「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が発表され、
日米関係の悪化を認め、
東南アジアへの武力行使という
戦争を予想した政策を発表しました。
●「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」 1940年7月 原文カナ
帝国は世界情勢の変化に対処し内外の情勢を改善し
速やかに支那事変の解決を促進すると共に
好機を捕捉し対南方問題を解決す。
支那事変の処理未だ終らざる場合において、
対南方施策を重点とする態勢転換に関しては
内外諸般の情勢を考慮して之を定む。
1940年9月には「皇国ノ大東亜新秩序建設ノ為ノ生存権」で
大東亜の範囲を決めました。
●大東亜の範囲
日本、満州、支那、日本の委任統治領南洋諸島
フランス領インドシナ(ベトナム)と太平洋諸島、
英領マラヤ(マレ-半島)、ボルネオ、ビルマ、インド、
英自治領オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランド、
オランダ領東インド(インドネシア)、タイ
大東亜共栄圏という言葉が正式に登場するのはこの頃からです。
挙国一致、大政翼賛の時代で言論統制も厳しい時代でしたから、
上から下まで大東亜戦争は「聖戦」であるという
大義名分で戦争に突入しました。
中には本当にアジア民族解放を信じて戦った軍人もいたようですが!
「 大政翼賛」
全てが天皇を中心に日本中が心を一つにして
大東亜戦争に進んでしまいました。
反対勢力が無く異論を唱えると非国民扱いされる時代でした。
このような体制を大政翼賛体制と言います。
1940年(昭和15年)10月に
国民統合組織として大政翼賛会が出来ました。
既成政党を解散し、各種報国会や大日本婦人会を傘下にして、
国民全てで天皇を中心にして戦争に向かう体制を取ったのです。
言論の統制も厳しかった為、
本来民主的な立場にいるはずの人たちや、
敗戦後民主的な活動をした人たちが
当時は大東亜戦争を賛美する文章を書いていました。
一旦全体主義になってしまうと、
異なる意見は徹底的に弾圧されますから
仕方がないことなのでしょう。
現代社会、特に最近は気をつけなければならないことです。
●大東亜文学者大会 大会宣言
昭和17年11月5日(日本学芸新聞 昭和17年11月15日)
・・・・大東亜戦争の勃発はわれ等
東洋の全文学者に根源よりの奮起を促し、
東洋再建の牢固たる決意を齎(もたら)したり・・・・
温かき親愛の下に東洋の大生命を
世界に顕揚すべく鋭意実行を期す・・・・
しかしてこれが成否はひとえに
大東亜戦の勝利にかかれり、
われ等アジアの全文学者、
日本を先陣とし、生死を一にして
偉大なる日の東洋に来らんがため力を尽さむ。
●詩人 佐藤春夫の詩「大東亜戦史序曲」
天の一方、天孫の再臨の聖地のあたり
皇道の明星ありて世紀の朝にかがやき
大東亜に愛の秩序の暁を約するを
●三好達治の詩
大東亜共栄圏の 青空は僕らの空
日の丸ひるがへる空
何人の汚すもゆるさず
大東亜共栄圏の 青空は僕らの空
●浅沼稲次郎 論文 戦後の社会党委員長
「実業之世界」1940年9月号
・・・・今や事変は満三年を経過し、
御稜威(注:天皇の威光)の下、
皇軍将兵諸士の奮闘努力によって戦果非常にあがり、
汪精衛を中心とする更生支那の建設を見、
東亜新秩序建設その緒につき、
国民の一人として感謝感激に耐へざる所であるが、
昨年9月欧州第2次動乱の突発、
独伊の圧倒的勝利は旧き欧州秩序をして
新秩序に置きかへらしめ、
世界の歴史は特に転換せしめられんとして居る。
そして欧州情勢の進展は、
東亜新秩序の建設に当っても幾度か神機が到来しつつある。
いまこそ、我が日本は東亜新秩序建設を
阻止する一切の勢力の亜細亜より退陣を求め。
大東亜共栄圏確立に邁進すべきである。
これに対して個人的日記ですが批判的なことを書いている人もいます。
●永井荷風 日記「断腸亭日乗」
1941年6月15日
・・・・今回の戦争は日本軍の
張作霖暗殺及び満州侵略に始まる。
日本軍は暴支鷹懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、
長期戦争に窮し果て俄かに名目を変じて
聖戦と称する無意味な語を用ひ出したり。
欧州戦乱以降英軍振はざるに乗じ、
日本政府は独伊の旗下に随従し
南洋進出を企図するに至れるなり。
然れどもこれは無知の軍人ら猛悪なる壮士らの
企るところにして一般人民の喜ぶに非らず。
注:暴支鷹懲-ぼうしようちょう、
暴戻な支那を懲らしめるという意味
永井荷風は個人的な日記だから
批判的な事を書けたのかもしれません。
思ったことを口に出せないくらい世の中でした。
なんとなく発言しづらい・・・・
まだ大丈夫だと思っている内に・・・・
いざ反対しようとしたら、
法律でがんじがらめになっていて、
挙国一致の大政翼賛社会になっていたのです。
最近の日本を見ていると、
憲法改正、日の丸・君が代の強制、盗聴法、・・・・
丁度その頃の雰囲気になっているような気もしないではありません。
「東南アジアへの南進政策」
1940年ヨーロッパではドイツの攻撃で
フランスとオランダが降伏しました。
その時をチャンスとして日本の南進政策が始まりました。
オランダへは外務大臣の有田八郎が蘭印
(オランダ領インド、インドネシアの事)ノ資源を
日本に供給する事を要求しました。
これに対しては在オランダ公使の
石射猪太郎が反対を唱えています。
●石射公使の反対意見
オランダが国家存亡の関頭にたちつつある際、
貴殿御訓令の執行は、
あたかも臨終の床に
借金の催促に行きたるの感あり・・・・
しかし、オランダは結局重要戦略物資13品目を
日本に供給する事を受け入れました。
フランスに対しては、
参謀本部は中国への補給路を遮断するために、
仏印北部(フランス領インドシナ、ベトナムの事)に
強引に武力進駐をしました。
そして1941年7月、
仏印から中国への輸送停止(援蒋ルートの遮断)、
日本軍の通過と飛行場使用をフランスに認めさせました。
さらにイギリスにたいしても
対中国援助を中止させました。
●援蒋ルート
侵略をした日本軍と戦っていた
蒋介石率いる国民党軍を支援するため
欧米各国は通称「援蒋ルート」と呼ばれたル-トで
中国に多くの物資を送っていました。
日本軍としてはそのル-トを遮断する事が
南方進出の目的の一つでした。
援蒋ルートは色々ありました
◎ベトナムから
◎ビルマから
◎香港から
「ABCD包囲網 」
日本の南進政策に対し各国は厳しく対処し、
通商条約、石油条約の破棄、
或いは日本資産の凍結等の処置をとりました。
当時の日本人は、せっかく善意で大東亜の事を考えているのに、
各国から不当な圧迫を受けていると思い、
だから戦争になったと主張しました。
日本に経済制裁をした主要な国は、
アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)の国でしたので、
頭文字をとってABCD包囲網と呼びました。
現代でも太平洋戦争の原因はABCD包囲だと考えている人がいます。
しかしアメリカは1941年8月まで
ガソリン類を日本に輸出しているので、
日本の南進政策と戦争開始決定の方が
早く決まっていたようです。
「戦争開始」
1941年9月6日、政府、大本営首脳が
天皇臨席の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決まりました。
●帝国国策遂行要領
帝国は現下の急迫せる情勢
特に米英蘭等各国のとれる対日工作、
ソ連の情勢及び帝国国力の弾発性(弾力性)等に鑑み、
「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中、
南方に対する施策を左記より遂行す
1 帝国は自存自衛を全うするため、
対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に
概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。
以下省略
10月29日、
参謀総長裁可のもとに
「対英米蘭戦争帝国陸軍作戦計画」が完成し、
11月5日の御前会議で決定されました。
12月1日の御前会議で開戦が決定され、
大海命が聯合艦隊司令長官山本五十六に対し出されました。
注:天皇から海軍に対する直接命令、陸軍へは大陸命
1 帝国は、12月上旬を期して、米英蘭に対し開戦する事を決す
2 聯合艦隊司令長官は、
在東洋敵艦隊及び航空兵力を撃滅するとともに、
敵艦隊東洋方面に来攻せば、これを攻撃すべし
3 聯合艦隊司令長官は、南方軍総司令部と協同して、
速やかに東亜における米英蘭の主要根拠地を攻撃し、
南方要塞を占有確保すべし
翌、12月2日、
大本営は「ニイタカヤマノボレ1208」という
戦争開始の暗号電報を全軍に打電しました。
12月8日に攻撃を開始しろ、と言う意味です。
海南島から出発した侘美宏少将率いる侘美支隊は、
12月8日早朝2時15分にマレ-半島のコタバル攻撃を開始し、
イギリス軍との戦闘の中で上陸を開始しました。
注:侘美支隊は第25軍第18師団(久留米)
第56連隊を主力とする部隊です。
コタバル上陸はハワイの真珠湾攻撃より1時間前です。
ですから戦争開始は一般に言われている
ハワイではなくマレ-半島だったのです。
2日後の12月10日、
大本営政府連絡会議は、
この戦争をこれ以降の中国地域の戦争も含めて
「大東亜戦争」と呼ぶ事に決めました。
●12月12日、内閣情報局の説明
大東亜戦争と称するは、
大東亜新秩序建設を目的とする
戦争なることを意味するものにして、
戦争地域を大東亜に限定する意味にあらず
東南アジアを攻撃した日本軍の体制は次の通りです
◎フィリピン 第14軍 司令官 本間雅晴中将
◎ビルマ 第15軍 司令官 飯田祥二郎中将
◎インドネシア 第16軍 司令官 今村均中将
◎香港 第23軍 司令官 酒井隆中将
◎マレ-シア 第25軍 司令官 山下奉文中将
●1941年12月8日の開戦日の日本軍の動きを時間経過で見てみます。
2時15分 侘美支隊 マレ-半島コタバルに上陸開始
3時19分 機動部隊(南雲艦隊・南雲忠一中将) 真珠湾攻撃開始
4時 近衛師団吉田支隊 バンコック南方海岸に上陸開始
4時12分 第5師団の一部 タイ南部のシンゴラ海岸に上陸開始
5時38分 シンガポ-ルのセレタ-飛行場を空襲
7時46分 海軍第4航空戦隊 ミンダナオ島ダバオを空襲
7時50分 海軍陸戦隊 ルソン海峡バタ-ンに上陸
8時 第23軍 香港の攻撃開始
「大東亜の国々と占領目的」
戦争開始前の1941年11月20日には、
開戦前にもかかわらず大本営政府連絡会議では
早くも「南方占領地行政実施要領」が決定されました。
●実施要領の要点
1 占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安を回復する
2 重要国防資源の急速獲得
3 作戦軍の自活確保
この内容を言い変えると、
国防資源の獲得が目的で、
その為に早く治安を回復し、
さらに軍隊は本国を頼らずに
現地で何とか自活しろ・・・・ということです。
そしてその後に続く文章には、
この為に現地住民に重圧がかかっても我慢させる、
住民の要求は占領目的の範囲内を限度とし、
独立運動を早めに誘発する事は避ける・・・・と
書かれています。
占領地における陸軍と海軍の分担も決まっていました。
●1941年11月26日付「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」
陸軍担当地域 香港、フィリピン、英領マラヤ、
英領ボルネオ、ビルマ、蘭印スマトラ、ジャワ
海軍担当地域 その外郭地域
当面の目標としては大きな目的の
重要国防資源の需要を満たすように戦争を遂行し、
かつ「大東亜共栄圏自給自足体制を確立」することを目標に、
南方を甲地域と乙地域に分けました。
●1941年12月12日 関係大臣会議決定「南方経済対策要綱」
甲地域(軍政を実施するところ) フィリピン、
英領マラヤ、英領ボルネオ、蘭印(インドネシア)
乙地域(現地政権と協同するところ) 仏印(ベトナム)、タイ
1942年1月、
東条英機首相は帝国議会で演説し「大東亜戦争指導要綱」を発表しました。
●大東亜戦指導要綱 1942年1月22日 朝日新聞
・・・・大東亜戦争指導の要綱は、
大東亜における戦略拠点を確保するとともに、
重要資源地域を我が管制下に収め、
もって我が戦力を拡充しつつ・・・・
米英両国を屈服せしむるまで戦い抜く・・・
大東亜防衛のため絶対必要なる地域は、
帝国自らこれを把握措置し、
その他の地域に関しては、各民族の伝統文化に応じ、
戦局の進展に伴いそれぞれ適当なる措置に出づる・・・・
比国(フィリピン)に関しては、将来同島の民衆にして、
帝国の真意を了解し「大東亜共栄圏」建設の
一翼として協力し来る場合においては、
帝国は欣然として彼らに独立の栄誉を与えんとするものである・・・・
1942年10月12日の大本営陸軍部の
「南方占領地各地域別統治要綱」では、
マラヤ、スマトラは資源だけではなく、
軍事的にも必要であり「南方経営の核心地帯」とされました。
マラヤ 経済・交通の中枢
ビルマ 重要資源の一部補給源、対インド政策の謀略の基地
フィリピン 重要資源の一部補給源
北ボルネオ 重要資源特に石油の一部補給源
ジャワ 重要国防資源、一部補給源、
南経済自給の為交流資源の供給地
オランダ領インドは翌年独立容認に変更され、
ビルマとフィリピンは1943年8月に形だけの独立が許されました。
1945年3月にはアンナン・トンキン(ベトナム)、
ラオス、カンボジアの3国を独立させました。
「大東亜会議」
1943年11月5日、東京で大東亜共栄圏に参加している
国々の首脳を集めて2日間の会議が開かれました。
今で言うとサミットのようなものです。
日本が勝手に侵略して作った傀儡政権ばかりで、
世界に向かって存在と成果をアピ-ルする事が目的だったようです。
●参加した国は
大日本帝国 総理大臣 東条英機
満州国 国務総理 超景恵
中華民国(南京) 行政院長 汪兆銘
注:蒋介石の国民政府とは別に日本が作った傀儡政権です
タイ国 内閣総理大臣名代 ワンワイタヤコ-ン
フィリピン共和国 大統領 ホセ・ラウレル
ビルマ国 内閣総理大臣 バ-・モ-
オブザ-バ-
自由インド仮政府 主席 S・チャンドラ・ボ-ス
会議の後、日本政府が用意した「大東亜共同宣言」が発表されました。
●大東亜共同宣言 (原文カナ)
1 大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保、
道義に基づく共存共栄の秩序を建設す
1 大東亜各国は相互に自主独立を尊重し
互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
1 大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し
各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昴揚す
1 大東亜各国は互恵の下、緊密に提携し
其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
1 大東亜各国は万邦との交誼を篤うし
人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで
資源を解放し以って世界の進軍に貢献す
非常に理想的な言葉が並んでいます。
実際に占領地ではどのような事があったのでしょうか。
これ以降は戦争の経緯より
戦争中に起きた事件中心に書いていきます。