1932年(昭和7年)4月、
石井の努力の結果、牛込区戸山町(現新宿区)の
軍医学校の中に研究施設「防疫研究室」が
梶塚隆二を仮の主幹として発足し、
細菌部隊は事実上スタ-トしました。
●陸軍軍医学校50年史より・・・・
事変前における世界の情勢と
本邦医学界における現況に鑑み、
学校においては戦疫予防に関する
研究の一日もゆるがせにすべからざるを痛感し・・・・・・
昭和7年4月防疫部地下室の一部を改造し
応急的に防疫研究室(主幹二等軍医正梶塚隆二)の
新設を見るに至れり
そして実際には8月に石井を主幹としてスタ-トしました。
●同上50年史より
小泉教官の絶大なる支援の下に
上司の認むるところとなり、
軍医学校内に石井軍医正を首班とする
研究室の新設を見るに至りしものなり。・・・・
8月・・・・石井軍医正以下5名の軍医を
新たに配属せられ防疫研究室を開設す
発足当初のメンバ-は下記の通りです。
●防疫研究室職員表 昭和8年8月1日現在
主幹 教官陸軍一等軍医正 梶塚隆二
部員 陸軍三等軍医正 石井四郎
同 陸軍一等軍医 西村英二
同 同 北川正隆
同 同 渡辺廉
同 同 北条円了
同 同 白川初太郎
嘱託 小嘉晴雄
雇員 菅原敏 石山金三
古本広文 鳥井敏信 川畑豊
その他(30名傭人、臨時当)
防疫部の地下に間借りしていた防疫研究室は
早くも翌1933年には2万平方メ-トルの敷地に
約30棟を持つ巨大研究室になりました。
防疫研究室が出来る以前から石井は満州に赴き、
背陰河(ハルビンの南東70キロ)に
防疫特務機関を作り、
東京の研究室と満洲を行き来していました。
●満洲への出張日程表 先前述50年史から
出張先 出張期間 官 氏名
満洲 32.8.11~9.19 三等軍医正 石井四郎
同 33.9.30~34.3.21 同 同
同 32.8.9~9.6 一等軍医 増田知貞
以下省略(部員の全メンバ-が交代で行っています)
● 証言 韓暁 侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長
「731部隊の犯罪」から
・・・・背蔭河駅の東部に20~30戸の民家や商店があった。
黒田大尉は村長に命じて告示を出させた。
「店舗と民家は3日以内に明け渡して出て行け。
従わなければ捕えて家を焼く」というものだった。
当地の百姓たちはしかたなく引越していった。
黒田は雑貨店の100余りの部屋を占拠して臨時の事務所として、
その他の店舗や民家はみな火を放って焼いてしまった・・・・
当時は1000名近い「労工」と馬車が工場建設に強制連行された・・・・
工場はあたかも要塞のようだったことから、
人々は中馬城と呼んだ・・・・
2棟の監獄は、それぞれ30余りの監房があり・・・・
500~600人の捕虜が常時収容されていたと思われるが、
多いときには1000人にも達した。
●証言 呉沢民
堀を掘るために、近くの村から
大勢の中国人が駆り出されました。
建物の建設にあたった中国人は
村の者ではなく、どこからか連れてこられた。
工事が完了すると、全員殺されたようです。
堀や塀を造る為に、私たちの村からも
安い賃金で半強制的に徴用されました。
もちろん私も行きましたよ。
全部で1000人はいたのではないでしょうか・・・・
1932年末石井四郎が東京の上官に送った
手紙には次の様に書かれています。
◎御尽力のお陰で,我々は細菌研究面です
でに多大の成果を挙げております。
そろそろ実験を開始する時期となりました。
新兵器を開発すべく我々研究者全体を
満州国に派遣下さいますよう嘆願いたします。
正式に部隊がスタ-トしたのが
1932年なのか1933年なのか意見が分かれますが、
1932に準備が完了して
1933年に正式にスタ-トしたのでしょう。
●関東軍参謀副長(当時)岡村寧次の回想 岡村大将記録から
石井機関の創設については、
本省では、大臣、次官、軍務局長、医務局長ぐらい、
関東軍では小磯参謀長と
私だけが知っているという極秘中の極秘事項とし、
私だけが直接石井と密会して
中央と連絡するということになっていた・・・・
ときは昭和8年のある月ある日であったと思う。
石井研究機関は、ハルビン東南方背陰河に設置された。
この特務機関の名称は背陰河守備隊でしたが、
通称中馬城(隊長の中馬大尉の名前)と言われ、
600メートル平方の土塀と高圧電線に囲まれた、
中国人を使った人体実験場でした。
この時点ではまだ731部隊とは呼ばれず、
秘密保持のために偽名を使って
東郷部隊(尊敬していた東郷元帥)或いは
加茂部隊(石井の郷里の地名)と呼んでいました。
また為幹部は偽名で働いていました。
その後石井が前面に出るようになっても、
石井四郎が東郷大佐、北条圓了が大山大佐、
太田澄が大島少佐・・・・等と呼ばれていました。
●北条円了の手記から 東郷会誌1986年3月刊より
注:東郷会は731部隊の戦友会
・・・・陸軍省や参謀本部の当事者を説得して、
遂に満洲ハルピンの東方の背陰河に細菌兵器の
防疫研究所(石井部隊)の設立を見るに至ったのでした。
背陰河は匪賊の根拠地であったとかで
ほんとに寂しい所で十数軒の満洲家屋のある小部落でした。
関東軍司令部の選んでくれたここに
石井大佐を始め軍医学校防疫研究室附の
軍医数名、雇員若干名と共に
満洲出張の形で背陰河に行き
ここの住民を隣村に立ち退かせ
部落の中で大きな数軒を選んで家屋を改造し、
軍医学校の防疫研究室に似た研究室に改造したのでした。
この当時石井部隊は機密保持上皆氏名を変更して
石井さんは東郷大佐、私は大山少佐でした。・・・・
昭和15年夏頃でしたが、
この研究室は余りにも不便で非常に狭くて
充分な研究が出来ないので、
石井部隊長は陸軍省に意見具申して
もっと大きな研究所に改装することになった。・・・・
この段階ではすでに細菌の効力試験や
水だけで(普通の水或いは蒸留水)で
何日生きられるかなどの実験をしています。
ここでの実験の成果について、
遠藤三郎日記(陸軍中将、関東軍参謀)から見てみます。
●遠藤三郎日記
1933年11月16日(木)快晴
・・・・第2班の担当は毒ガス、毒液の試験、
第1班、電気の試験等にわかれ各OO匪賊につき実験す。
ホスゲンによる5分間のガス室試験の者は
肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。
青酸15ミリ注射の者は約20分間にて意識を失いたり。
2万ボルト電流による電圧は
数回実施せるも死に至らず、
最後に注射により殺し
第2人目は5千ボルト電流による
試験をまた数回に及ぶも死に至らず。
最後に連続数分間の電流通過により焼け死せしむ・・・・
夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず。
1933年12月8日(金、降雪)
午前10時15分拉林着。
石井及び伊達氏に迎えられ、
背陰河の細菌試験所を視察す。
600メータ-平方の大兵営にして一見要塞を見るが如し。
一同の努力の跡歴然たり。
20数万円の経費亦止むを得ざりしか。
遠藤三郎はこの時の視察の様子を
40年後に次のように書いています。
●日中15年戦争と私
被験者を一人一人厳重な檻に監禁し
各種病原菌を生体に植えつけて
病勢の変化を検査しておりました。
如何に死刑囚とはいえ
また国防のためとは申せ見
るに忍びない残酷なものでありました。
死亡した者は高圧の電気炉で
痕跡も残さないように焼くとのことでありました。
背陰河の東郷部隊ではかなりの
生体実験が行なわれたようです。
研究者が脳の研究をしたい場合、
衛兵が監獄から適当の捕虜を選び、
斧で頭を割り脳は研究者に、
死体は病理学者に運ばれました。
用の済んだ死体は証拠が残らないように
焼却炉で処分されました。
ここでの研究はかなりの成果を挙げたようです。
●岡村寧次大将 の回顧録から
・・・・着々と成果を挙げたが
その内容は固より私はよく知らないが、
終戦後石井の直接漏したところによれば、
専売特許的の成果件数は200種に上るという・・・・
一体どの位の捕虜が犠牲になったのかは
よく分かっていません。
1000人位の捕虜が収容できる施設に、
通常500人から600人の捕虜が
収容されていたと言う証言があります。
1932年から1934(36年の説もある)まで
2年から4年背陰河の部隊が存続した事を考えると
犠牲者は相当の数になると思われます。
よく731部隊の犠牲者の数が
3000人とか4000人とか言われますが、
これはハバロフスクの軍事裁判での
川島清の証言や中国での吉房虎雄の供述の数字です。
あくまでも正式に731部隊になってから
憲兵が特移扱として連行した人数ですから、
背陰河の東郷部隊の犠牲者数は含まれていません。
又、他に4つあった細菌部隊の犠牲者の数は含まれていません。
●栗原義雄の回想から
1934年5月に研究補助者として背陰河に行った。
1936年帰国
・・・・背陰河の施設は、敷地が300坪程度で、
荒野の中にありました。
守備隊の人員は20人で、その他に憲兵が2人いました。
正面の塀は高く、そこに銃眼がついていました。
この土塀の上には電線が張ってあり
電流が流されていました。・・・・
部隊から200メ-タ-位離れたところに背陰河駅がありました。
被験者は当時すでに丸太と呼ばれていました。
彼らは貨車で駅まで連れてこられ、
その200メ-タ-ほどを車で運ばれました。
部隊には被験者となる人が常時100人程収容されていました。
被験者はペスト班では沢山死んでいましたが、
それ以外ではそう多くなかった。
コレラ腸・チフス・炭疽班では、細菌をマント-(饅頭))に入れて、
経口感染の実験をしていましたがあまり感染しませんでした。
マント-に入れる細菌の数は軍医が決め、
自分たち傭人は被験者に食べさせるだけでした。
私は太田さんの下で、
炭疽菌を入れたマント-を食べさせる仕事をしました。
堀の中の建物は土で出来ていました。
大きさは間口約5間から10間程のものでした。・・・・
自分は軍属の菅原敏さんの下で
水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。
その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。
蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると
「大人味のある水を飲ませてくれ」と訴えました。
45日間生きた人は「左光亜」という名前の医者でした。
彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。
1934年9月、部隊員たちが酒宴で
泥酔したところを見計って捕虜の「李」が扇動して、
囚人40人が脱走し、大部分は殺害されたものの、
王子揚ら12人が
東北抗日連軍(日本の侵略に抵抗した人民軍)
第3軍第1師に保護され、
第3軍は東郷部隊を襲撃しました。
その為ここで行なわれていた事が
中国人にばれたということで、
背陰河の施設は閉鎖になり、
全てを爆破し、捕虜は全員殺害し証拠は消されました。
● 証言 呉沢民の証言 脱走した人を助けた
1993年 山辺悠喜子の取材
深夜ジャラジャラという重い鉄の触れ合う音がした。
土匪だとばかり兄と旧式の鉄砲を握り締めた時、
「自分たちは中馬城から逃げて来た者だ。
済まないけどわれわれの足かせを外してもらえまいか」と
押殺したような声がしたので、
外を覗くと全部で33ほどもいるようだった・・・・
「われわれは抗日地下工作員だったが、
何人かの者が捕えられて血液をしぼり取られて死んだ。
いちかばちか我々は暴動を起こしてやっと逃げてきた」と言う・・・・
兄と一緒に斧で足かせを叩き壊した。
全部は取ることができず、何人かは外したが、
後の人は鎖だけ切って逃した・・・・