本土決戦の捨石に関しては残っている資料から証拠をさがしてみます。
●帝国陸海軍作戦大綱 1945年1月19日 意訳
目的
皇土特に帝国本土の確保
計画
南千島、小笠原諸島、沖縄本島以南・・・・を
皇土防衛の為・・・・極力敵の出血消耗を計り・・・・
持久戦と位置付け
●第32軍戦闘指令第1号 1945年2月15日
撃敵合言葉
一機一戦艦、一艇一船、一人十殺一戦車
注:飛行機、舟、人による特攻作戦のスロ-ガンです。
●戦争機密日誌
(大本営陸軍部作戦指導班参謀が業務内容を記録したもの)
1945年
4月2日 アメリカ軍が上陸した次の日
本日の作戦連絡に於いて総理より
琉球の戦況見通し如何との質問あり
これに対し第1部部長より
結局的に占領され本土来寇は必至と応答す
5月6日
沖縄作戦の見透しは明白となる
これに多くの期待をかくること自体無理・・・・
●沖縄戦の教訓 1945年6月29日 大本営陸軍部作成
沖縄がアメリカに占領されて、
いよいよ本土決戦が迫ったため、
軍がそのための教訓として出したものです。
6月20日に同じものがガリ版で出されています。
それによると
◎沖縄戦において実施せる対戦車戦闘の例として、
図入りで戦車攻撃で最も有効な方法として、
地面に穴を掘り爆弾を抱えて隠れ、
戦車通過時に兵士が体当たりする
と書かれています。
沖縄戦の教訓と言う文章ですから
沖縄で実際に行なった戦法でしょう。
そして日本本土でも沖縄と同じような
悲惨な戦いを一般国民に強いる事を軍は考えていたようです。
●最高戦争指導者会議
5月11日 米内外務大臣の発言
国体護持(天皇制を守る)の為には、
沖縄、小笠原、樺太、北千島を敵の手に渡してもよい。
●木戸幸一関係文書から 1945年2月14日 意訳
近衛文麿元総理の上奏(天皇に直接意見を伝える事)
最悪なる事(敗戦)は必至なり・・・・
国体護持の立場から考えると、
敗戦より革命の方が憂うべくである・・・・
従って国体護持の立場からすれば、
一日も速やかに戦争終結の方策を講ずべき・・・・
天皇の答
もう一度戦果を挙げてから出ないと中々話は難しいと思う
注:このやり取りは2月14日です。
もしこの時点で降伏すれば
沖縄戦の悲劇も原爆もなかったことになります。
天皇がもう一度戦果を挙げてから
連合軍と交渉するように、と
指示したことは重大な事です。