日本政府や軍部首脳は
早期に和平を実現し戦局を終結する考えで、
10月にはドイツの駐日大使に仲介を依頼しました。
いわゆるトラウトマン和平工作です。
しかし現地軍の暴走で和平工作は失敗し、
1938年1月15日交渉は打ち切られました。
当時の陸軍省軍事課長の田中新一は
政府や軍の意見の不一致を手記に残しています。
● 田中手記
南京攻略に関し、陸軍省首脳部は慎重論、
軍務課長柴山謙四郎大佐のごときは
南京攻略は地形上不可能の理由をもって
南京作戦阻止を大臣・次官に意見具申す。
参謀本部作戦課は積極的なり・・・・
軍中央の方針として拡大を防ぐため
中支那方面軍の任務は上海付近の敵の掃討とし、
拡大しないように進出制令線(作戦範囲)が
決められました。
● 参謀総長指示
中支那方面軍の作戦地域は概ね
蘇州、嘉興を連する線以東とする(原文カナ)
しかし現地軍は中央の指示を守らずに
進撃し戦線を拡大していきました。
● 11月9~13日
中国軍の退却が始まる
退却した中国軍を追撃して日本軍は
制令線を無視して戦争は拡大していきました。
現地の第10軍は11日15日に独断で
南京に追撃する事を決定。
19日に各師団に追撃命令を出した事を
参謀本部に報告しました。
● 11月19日第10軍より発電
集団は19日朝、全力をもって
南京に向ってする追撃を命令・・・・
参謀本部は第10軍の独断決定に驚き、
20日に「第10軍の南京追撃は
臨命第600号指示(作戦地区)の
範囲を逸脱している」
直ちに中止、制令線から
撤退せよと命令を出しました。
24日には今度は中支那方面軍から
「事変解決を速やかならしむるため、
現在の敵の頽勢に乗じ、
南京を攻略するを要す」との意見書が
参謀本部に届きました。
このようにして現地の兵士に知らせないまま
上海から南京へと拡大して言ったのです。
● 永井仁左右 回想録 野戦重砲兵第15連隊
我々は知らなかった。
○○城頭に翩翻と日章旗を翻すまで
進撃・・・との命令で、
我々は○○とは何処かと大騒ぎだった。
第一次(上海事変)のように
嘉定あたりだろうなどと、想像しあった。
激戦死闘をしたので、
南京と聞いたら精神的に参って仕舞ったろう。
それがずるずる南京まで進撃したのである。
ここで少しエピソ-ド的な話をします。
中国全土の日本軍の阿片政策の
中心的な役割をはたした
上海・里見機関の里見甫に関してです
注:阿片に関しては別に書いていますので
それを参考にして下さい
里見の上海同文書院の後輩・佐々木健児氏の証言です。
● 新聞通信調査会報1965年5月号
「里見さんのあれこれ」から
軍は昭和12年秋の大場鎮の戦闘で、
日本軍の損害が大きく、攻めあぐんだすえ、
里見に対策を求めた。
里見はつてを求めてフランス疎開で
敵将と極秘裏に会見。
折衝の結果、
支那軍総退却の合意を取り付けたが、
約束が実行されるかどうかに
一抹の不安を持った軍当局は、
その代償金の金額前渡しを、
ニセ札で行おうと主張したが、
里見は烈火の如く怒り、
「日本の武士道いずくにありや」と責め、
真札を贈って信義を守った。
敵将も里見との約束を守って、
打合わせ通りの日時に合図の号砲を発射し、
これに応じて開始された
日本軍の総攻撃と同時に、
敵は全線にわたる総撤退にうつり、
前日まで寸土も許さなかった
大場鎮の堅塁は、たいした犠牲もなく陥落した。
もしこのことが事実なら、
事変の拡大を防ぎ上海だけで
収めようとしたことになります。
しかしながら現地軍は軍首脳や里見の考えを
無視して中国軍の撤退に乗じて
南京に進撃してしまったことになります。
11月13日から国際連盟総会の勧告を受けて、
米国と英国が提案国となり
ベルギ-のブリュッセルで
9ケ国会議が開かれました。
通称ブリュッセル会議です。
会議では日本を非難する宣言を採択したものの、
日本が最も恐れていた
対日経済封鎖は回避されました。
それに安心して勢いづいた日本は、
陸海軍を含めた戦争の最高指導機関として
大本営を設置することになります。
● 11月20日
大本営が宮中に設置される
(日露戦争以来32年ぶりのこと)
注:大本営
陸海軍の最高司令官である
天皇の総司令部で、
戦時に設ける最高統帥機関
通常は事変の場合大本営は設けないが、
軍令を改正した。
● 東京日日新聞 昭和12年11月20日 号外
事変対応の大本営けふ宮中に設置さる
長期作戦の決意宣揚
陸海軍発表-
本11月20日大本営を宮中に設置せられたり
南京に戦争が拡大していく中で徐々に
日本軍による不祥事が陸軍中央でも
問題になってきました。
●陸軍省軍務局軍事課長 田中新一大佐
「軍規粛清問題」 田中新一支那事変記録から
軍規頽廃の根元は、召集兵にある。
高年次召集者にある。
召集の憲兵下士官などに唾棄するべき
知能犯的軍規破壊行為がある。
現地依存の給養上の措置が
誤って軍規破壊の第一歩ともなる。
すなわち地方民
(注:軍隊用語で民間人のこと)からの
物資購買が徴発化し、
暴行に転化するごときがそれである・・・・
補給の停滞から第一線を飢餓欠乏
陥らしめることも軍規破壊のもととなる。
軍規頽廃問題を抱えたまま
日本軍は南京へと追撃しました。
上海から南京までは約300キロメ-トル、
東京から豊橋くらいの距離です。
11月24日、大本営は仕方なく
制令線の撤廃を指示しました。
同25日、方面軍は体制を整えるために、
無錫、湖州の線で爾後の作戦を準備せよと命じました。
しかし第一線部隊はこの命令も無視したのです。
● 戦史叢書
・・・南京攻略の決意も制令線の突破も、
常に第10軍が独断の名のもとに先駆けをし、
方面軍がこれに追従し、中央が追認する
形をとって進行した・・・・
ここまで現地の日本軍が暴走すると、
しぶしぶ参謀本部も追従し、
11月28日、多田参謀本部次長は
遂に拡大に同意する事になりました。
そのためには日本から輸送などの
後方部隊の増員が必要で、
その完了まで現地軍の行動を
抑える必要がありましたが、
武藤参謀副長は強気の発言をしています。
輸送などの後方部隊が不完全なまま
南京へ進撃開始をした事も、
虐殺・強姦・略奪が増えた一因でもあるでしょう。
● 軍務局長武藤章回想録 (当時は参謀副長)
内地から新たに動員する部隊の
集結を待って作戦を発起していたら、
戦機をを逸してしまう。
今すぐ南京攻略の大命を出してもらえれば、
方面軍としては自前の兵力で何とか南京は攻略できる。
時機を失して追撃の手を緩めると、
敵に立ち直る機会を与えることになる。
そうすると南京攻略はむずかしくなる。
幸い傷手を蒙った上海派遣軍も
おおむね元気をとりもどしつつあるし、
新鋭の第10軍は破竹の進撃を目下抑えているところだ。
当時の日本国内では、
まるで戦争ゲ-ムを楽しむように
上海から南京への進撃に浮かれていました。
提灯行列を準備し南京城に
日章旗が翻るのを心待ちにしていたのです。
新聞社をはじめとする報道関係も
大量動員して先を争って国民の期待を
煽る報道をしたのです。
例えば朝日新聞社関係が80人以上、
大阪毎日新聞関係が70名以上を現地に派遣し
それらが連日、連戦連勝を煽ったのです。
現地の軍も同様に煽られて
先へ先へと南京に突っ走ったのです。
● 山田栴二少将日記
11月13日
例により師団より矢の催促、
第一線の苦労も努力も何のその、
唯あせりにあせって成功をのみ望む
同23日
例により師団司令部突っかけてくる。
如何にあせりても落ちざるものは落ちぬなり
● 上村利道大佐 日記
戦況は進む、盲目滅法なり・・・・
まるで各兵団の「マラソン」競争にて
後方の追及も何もあったものにあらず・・・・
12月1日、大陸命第8号が発令され、
同時に大本営から戦闘序列も発令されました。
● 大陸命第8号
支那方面軍司令官は海軍と協同して、
敵国首都南京を攻略すべし
天皇が始めて、中国を敵国と呼び、
首都南京の攻撃を命令したのです。
現地軍は今まで陸軍中央の指示を無視して、
つまり天皇の意向を無視して暴走してきたのですが、
ここで天皇がはっきりと暴走を承認したのです。
天皇の意向を無視したことに
後ろめたさを感じていた
現地の司令官たちは非常に喜び、
天皇に認めてもらったことに感動しました。
すでに南京に向けて進撃していた
日本軍は命令後、3ルートに分かれて
南京城に進攻しました。
それまで中支那方面軍と
上海派遣軍の司令官を兼任していた松井石根は、
中支那方面軍の専任司令官となり、
新たに皇族の朝香宮鳩彦中将が
上海派遣軍の司令官に任命され7日に着任しました。
黄色部分
注:戦闘序列とは天皇の発令する
軍の編成のこと、
それまでは臨時編成で編合と言った
注:はじめて天皇が中国を敵国と呼んだ
注:大陸命は天皇の命令を
大本営陸軍部が出したもの
注:皇族の朝香宮鳩彦中将が
上海派遣軍の司令官に
任命されたことも重要です
この頃になって前記トラウトマンの
和平工作はやっと動き出しました。
12月2日、国民政府の蒋介石は
駐華ドイツ大使トラウトマンに
日本側の和平条件を認める意向を伝えました。
● 日本側の和平条件要旨 「支那事変対処要綱」
10月1日首相・陸相・海相・外相で決定、
天皇に上奏
中国が満州国を承認する
日本は華北における国民政府の行政権を認める
華北の一部と上海周辺に非武装地帯を設定する
中国は抗日政策と容共政策を解消する・・・・・
しかし日本から要請した和平工作にもかかわらず、
南京攻略で興奮していた日本政府は
強気に中国政府からの
申し入れを断ってしまいました。
◎広田外相
犠牲を多くだしたる今日、
かくのごとき軽易なる条件をもってしては
これを容認しがたい
◎近衛首相
大体敗者としての言辞無礼なり
◎杉山陸相
このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい
日本側がドイツの和平斡旋を断った事に関して
石射猪太郎は怒ったことを日記に残しています。
● 外務省東亜局長 石射猪太郎の日記から
12月8日
アキレ果てたる大臣どもである・・・・
もう行きつくところまで行って
目が覚めるよりほか致し方なし。
日本は本当に困難にぶつからねば
救われないのであろう
注:現在の日本の政治状況にも
通じる言葉です。(2017年4月現在)
12月4日、日本軍は南京防衛線東側の
一番外側のラインである句容県に攻め込み占領しました。
ここから南京戦が始まります。
8日の4時頃日本軍は飛行機で日本語と中国語の
「投降勧告文」を城内に投下しました。
● 日本軍の勧告文
日軍百万すでに江南を席巻せり。
南京城は正に包囲の中にあり、
戦局の大勢よりみれば、
今後の交戦はただ百害あって一利なし・・・・
日軍は抵抗者にたいしては
きわめて峻烈にして寛怨せざるも、
無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては
寛大をもってし、これを犯さず・・・・
しかして貴軍交戦を継続せんとするならば、
南京はいきおい必ずや戦禍を免れ難し。
しかして千載の文化を灰燼に帰し、
十年の経営はまったく泡沫とならん。
よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す。
すなわち南京城を和平裡に開放し、
しかして左記の処置に出でよ。
大日本陸軍総司令官 松井石根
注:黄色線の左記の処置とは、
中国側からの回答を12月10日に受領する。
回答がない場合はやむをえず
攻撃を開始するというものでした
しかし中国軍はこれを拒否し、
南京防衛軍司令官唐生智は
「本軍は複廓陣地において
南京固守最後の戦闘に突入した。
各部隊は陣地と存亡を共にする決心で、
死守に尽力せよ」との命令を出しました。
12月10日午後2時、
日本軍は中国側が降伏勧告文に
応じなかったため南京城攻撃命令を下令しました。
防衛軍の撤退が遅れ、
最終的には11日に蒋介石から
撤退命令が出たもののきちんと伝達されず、
混乱と日本軍の攻撃の中で中国軍は崩壊し、
南京に残っていた一般住民や
周辺から避難していた避難民は
大パニックを起こし逃げまどい、
侵入する日本軍と入り乱れました。
12日12時、中華門西方の城壁に
第6師団第47連隊が日章旗をたて、
その後続々と占領が進みました。