米英を中心とした連合国では、
第二次世界大戦後の戦犯処罰方針を
1941年秋から決め始めました。
ヨーロッパでナチスに占領されていた
9ケ国はセント・ジャ-ムス宮殿の会議で
9ケ国宣言を出しますが、
会議には前年参加要請を受けていた中国も
オブザ-バ-として出席しました。
その後中国政府は本腰を入れて
日本軍による被害の調査に乗り出し、
1943年11月に「敵人罪行調査委員会」が組織されました。
その後、連合国の調査に参加する国は
17ケ国に拡大し、1944年1月18日に
連合国戦争犯罪調査委員会
(UNWCC・The United Nations War Crimes Commision)が
発足しました。
一方既に戦争犯罪調査を
開始していた中国では、
44年2月に行政院の指導の下に
外交部・司法行政部・軍政部が中心になり
正式に「抗戦損失調査委員会」を発足させました。
● 中国側が調査対象とした項目
1. 謀殺、屠殺及び組織計画によるテロ行為
2. 強姦、女性略奪、強制売春
3. 占領区民衆に対する徴兵の強制
4. 略奪
5. 集団処罰行為
6. 平和都市または非軍事目標に対する爆撃
7. 無警告による商船攻撃
8. 病院及びその他の慈善、教育、
文化施設に対する意図的な攻撃
9. 赤十字及び他の関係規則の違反
10. 毒ガス、細菌及び他の毒物の使用
11. 捕虜及び傷痍軍人の殺害
12. 麻薬の栽培、製造、販売、
輸送、取引所の開設
13. 占領地における違法施設等
前年10月に発足した「連合国戦争犯罪委員会」の
下部組織「極東太平洋小委員会」が重慶に設置され、
中国と協力して調査に当たりました。
1944年11月のことです。
中国の方針としては
「戦犯を処罰するにしても、
根拠もなく報復的に処罰するのではなく、
出来る限り証拠資料に基づいて処罰する」として
比較的公正な方針をとりました。
そのため実際よりかなり少なめに
調査結果が出る傾向がありました。
1943年のカイロ宣言の中の
「日本は戦争犯罪人及び傀儡政権の
関係者を連合国に引渡し、
その審判を仰ぐこと」の方針が
中国の戦後対日構想にも織り込まれました。
連合国ではドイツや日本を裁くのに
「平和に対する罪」「人道に対する罪」といったような
「A級B級C級」という分け方をしました。
この考えがまとまったのは、
1945年のロンドン会議からでしたので、
中国では戦争犯罪といっても
いったい何をどのように裁くかに迷いがあり
絶えず変化していました。