マレ-半島の北半分はタイ国で独立国でした。
南半分がイギリス領マラヤで
その先端にシンガポ-ルがあります。
当時シンガポ-ルは東南アジアの軍事と経済の要で、
強力なイギリス軍がいて難攻不落の要塞といわれていました。
その為日本軍は背後のマレ-(マラヤ)から攻めました。
日本軍は歩兵が行進したのでは間に合わないため
自転車に乗って進攻しました。いわゆる銀輪部隊です。
●マレ-半島を攻めたのは第25軍で、
第5師団、第18師団、近衛師団の3つの師団で編成されました。
1942年2月15日、イギリス軍は降伏し、
日本はシンガポ-ルを占領して約10万人を捕虜にしました。
●歩兵第11連隊の陣中日誌によると、
この時あか剤やちび(青酸)等の毒ガス兵器を使用しています。
占領後すぐに日本軍はシンガポ-ルを昭南島と名前を変えました。
マレ-半島からシンガポ-ルに済んでいたのは
主としてマレ-人、華僑(中国人)、インド人でした。
日本は中国に対して激しい侵略戦争をしていましたから、
当然華僑は日本に反感を持っています。
そのため日本軍としては華僑を敵と見做し、
攻撃する対象と見ていました。
「虐殺の始まりと経緯」
日本軍はマレ-人を利用して占領政策をうまく進めようとしました。
民族対立を利用したのです。
マレ-半島の工作を担当していた
藤原機関(藤原岩一少佐)は積極的にマレ-青年同盟を利用し、
義勇軍や義勇隊を組織させました。
利用されて喜んだマレ-青年同盟は後
に日本軍に「マレ-共和国」を作りたいと提案しましたが
拒否されてしまいました。
結局はマレ-人を利用しようとした日本の計画はうまくいかず、
マレ-青年同盟はマラヤ人民抗日軍や
地下抗日運動ワタニアやイギリス軍136部隊と協力して
日本軍と戦うようになっていったのです。
当初はマレ-半島やシンガポ-ルで、
日本軍は民族対立を利用して華僑を虐殺したのですが、
華僑側から見るとマレ-人が
日本軍と組んで中国人を殺しているわけです。
この事が戦後の民族対立につながっていくのです。
同じ事がビルマでも起こりました。
ビルマではビルマ人を利用してカレン族を統治しました。
そして日本軍による華人大虐殺が始まりました。
日本軍が虐殺を開始する
華人粛清の命令は正式には2月18日に出ています。
しかし実際にはそれ以前、日本軍が占領してすぐから
捕虜や華僑に対する虐殺は始まっていました。
●色々な書物には華僑粛清は、日本軍上陸後、
華僑ゲリラによる激しい抵抗を受けたため、・・・・
と弁解して書いているものもあります が、
上陸前に粛清する事は決まっていたようです。
憲兵隊長大石正幸中佐は上陸前に
軍参謀長鈴木宗作中将から
「軍はシンガポ-ル占領後華僑の粛清を考えているから
相応の 憲兵を用意せよ」との指示を受けていたのです。
占領から虐殺にかけての経緯を整理します。
1942年
2月15日
イギリス軍が日本軍第25軍(軍司令官山下奉文中将)に
降伏してマレ-戦終了
2月16日
日本の戦闘部隊をすぐにシンガポ-ル市内に入れると、
不祥事が起きることを懸念して、
戦闘部隊は郊外に待機し、
第2野戦憲兵隊(隊長大石正幸中佐)が
市内の治安維持やイギリス軍の武装解除に当たりました。
南京事件のような不祥事を防ぐためだったようです。
2月17日
第5師団歩兵第9旅団長
河村参郎少将がシンガポ-ル警備司令官に任命された
2月18日
河村警備司令官は山下奉文軍司令官と
鈴木宗作参謀長から華僑粛清の命令を受けた。
その場に作戦の監督責任者として参謀辻正信中佐がいた。
●掃蕩作戦命令 裁判記録や河村日記から
1 ・・・・シンガポ-ルの治安は相等悪い・・・・
中国人の地下活動は広がってきているし、
それが軍の作戦を妨げている。
2 軍司令官はこれら抗日分子の絶滅を企図している
3 ・・・・掃蕩作戦をただちに行ない、抗日分子を一掃すべし
4 ・・・・手段と方法は軍参謀長より指示される
●軍参謀長からの指示
1 掃蕩作戦の期日は21,22,23日とする
2 対象
① 元義勇軍兵士
② 共産主義者
③掠奪者
④ 武器を持っていたり隠しているもの
⑤日本軍の作戦を妨害する者、
治安と秩序を乱す者ならびに治安と秩序を乱す恐れのある者
3 掃蕩の方法
① ・・・・地域のまわりに哨兵線を張り、抗日分子の逃亡を防ぐ。
② 地域を適当ないくつかのセンタ-に区分し、
全ての中国人を指定した地域に集め、
現地住民(注:マレ-人)の協力を得て抗日分子を選別する。
③ 上記に並行して、疑わしき場所を捜索し、隠れている者を逮捕し、
隠されているすべての武器などを没収する。
④ すべての抗日分子をほかの者から分離する。
⑤ 全ての抗日分子を秘密裏に処分する。
このためにシンガポ-ル内で適当な場所を使ってよい。
辻中佐を暫定的にこの任務を監督し、
また連絡任務をおこなうために派遣する。
このひどい命令に河村は驚いて抵抗したが、
天皇の命令に背くことは無理だった。
2月19日
大日本軍司令官の名で
「昭南島在住華僑18歳以上50歳までの男子は
来る21日正午までに左の地区に集合 すべし」との
布告が出された。
2月21日
この日以降華僑たちは指定場所に集められ、
そこで憲兵による簡単な検証(検問)が行なわれ、
反日かどうかを 判断し、
良民と判断されれば身分証明書に検証のスタンプが押され、
反日らしい者はトラックで郊外に運ばれ銃殺 された。
実際の判断基準は、質問、人相、財産のある者、教師・・・・という簡単なものでした。
2月21日
大西覚憲兵中尉が責任者をしている
検問所にやって来た軍作戦主任参謀辻正信は
「なにをぐずぐずしているのか。
俺はシンガポ-ルの人口を半分にしようと
思っているのだ」と激励した。
第5師団歩兵第9旅団長河村参郎少将は
誠実で温厚な人柄で、華僑虐殺には反対でしたが、
軍司令官の決済ずみという事で結局は実行しました。
戦後イギリスのシンガポ-ル戦犯裁判で死刑になりました。
獄中で書いた手記には
「軍の作戦命令の遂行によったものとはいえ、
私は犠牲になった中国人たちの魂の安らかな永眠を
心の底から祈ります」と書かれています。
「粛清の証言」
●読売新聞の従軍記者 小俣行男の手記から
敵は抵抗を止めて投降してきた。豪州兵だった。
投降兵たちはみんな山の陰に連れて行かれた。
1時間ほどたつと、パン・パン・パンと銃声が続けざまに鳴った。
恐らく彼等はみんな「処分されてしまった」のだろう。
その数は50~60人もいただろうか。
いや百人を超えていたかもしれない。
ここでも「インド兵は助けろ、英兵は殺せ」という原則が
実行に移されたのだろう。
・・・・この華僑は重慶につながっているのだから敵だという。
兵隊は単純にそう考えている。
だから華僑をみつけると捕らえてしまう。・・・・
家の前に座らされていた中国人の姿は見えない。
ゴム林の中へ連れて行かれて処刑されたらしい。
さっきの銃声は銃殺したときのものだった。・・・
華僑の処刑は上陸早々から始められたのだった。
●第21連隊 河野通弘の証言 粛清命令以前の2月13日の出来事について
直ちに旅団予備の第2大隊に「華僑を粛清せよ」との命令が下された。
戦火から身を守るブキテマ華僑700余人は
附近の防空壕に退避していたが・・・・
大隊長は第7中隊に華僑掃滅を命じた。
スパイ検問の余裕なく老若男女、幼児もろとも殺害に及んだ。
射殺、刺殺、あらゆる手段を用い、
はては壕内に住民を封じ込め手榴弾で爆殺した。
将兵らの目は血走り、鬼気迫る惨状であった。・・・・
作戦上の緊急手段であったとはいえ、
多数の罪のない住民を殺害した。
●通信隊小隊長 総山孝雄
軍参謀から電話で「・・・・第5師団はすでに300人殺した。
18師団は500人殺した。
近衛師団は何をぐずぐずしているんだ。
足らん足らん、ぜんぜん足らん。」と大変な剣幕でどやしつけられた。
そこで師団から「とにかく軍への申し開きが出来るよう、
なんでもいいから数だけ殺してくれ」と命令があった。
小隊はやむなく人相によって人を振り分け、
振り分けた者が100人になるとトラックに積んで
チャンギ要塞の近くの海岸に運び、
機銃で掃射して死体を海に捨てた。
抗日分子かどうか見分けるために
集められた華僑は20~30万人と言われています。
そして日本軍のシンガポ-ル粛清で犠牲になった華僑の数は・・・・
●イギリスに残っている河村少将の日記には、
2月23日に憲兵隊に報告させた数字として
5,000人と書かれています。
しかしその後も近衛師団その他で
虐殺は続いていましたから正確な数字ではありません。
●第25軍が東京に提出した報告書では
5,000人となっていますが、
これは河村日記を元にしています。
●同盟通信社からマレ-戦に従軍していた菱川隆文の陳述書には
・・・・杉田中佐の話として、50,000人殺す予定だったが、
約半分殺した時に中止するようにと命令が出た・・・・
とあります。
●現地の調査では4万から5万人といわれていますが、
いまだ完全に判明していません。