1947年に石井四郎の訊問に失敗したソ連ですが、
ハバロフスクの軍事裁判の結果確証をえたのでしょうか
改めて容疑者の調査を要求してきました。
1950年2月1日突然ソ連は、
天皇及び数名の日本軍高官を、
細菌化学戦争の計画立案に関わった罪で「追加戦犯」として
東京裁判に出すことを求める覚書を
アメリカ政府に手渡しました。
アメリカはこれを無視しましたが、
ソ連は関係国にも要請を再三繰りかえしました。
日本の外務省は翌3月に「新憲法の下でいまや天皇制が
超国家主義や軍国主義に利用されるおそれはなくなった」
ことを強調する文書準備しました。
1951年に講和交渉が始まると
日本側はアメリカに草案に「戦争犯罪に関する
あらたな訴追を終了する」ように訴え、
そして天皇の戦犯は免れました。