前の項目で戦争開始が真珠湾ではなくマレ-半島だと書きました。
この辺りのことと、宣戦布告に付いて少し整理をして見ます。
開戦に関する国際法としては、
1907年オランダのハ-グで署名された「宣戦布告に関する条約」があります。
日本では「開戦に関する条約」とされています。
●この条約の署名と公布
☆1907年(明治40年)10月18日 ハーグで署名
☆1911年(明治44年)11月6日 日本批准
☆1912年(明治45年)1月13日 日本公布
☆ 同 2月11日 日本で効力発生
●開戦に関する条約
全部で8条ありますが主要なのは3条までです。
第1条 締約国は理由を付したる開戦宣言の形式、
または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する、
明瞭かつ事前の通告なくして、
其の相互間に戦争を開始すべからざることを承認す。
第2条 戦争状態は遅滞なく中立国に通告すべく、
通告受領の後に非ざれば該国に対し其の効果を生ぜざるものとす。
該通告は、電報を以って之を為すことを得。
但し、中立国が実際戦争状態を知りたること確実なるときは、
該中立国は通告の欠缺を主張することを得ず。
第3条 本条約第1条は締約国中の二国又は数国間の
戦争の場合に効力を有するものとす。
第2条約は締約国たる一交戦国と均しく
締約国たる諸中立国の関係に付拘束力を有す。
日本はこの開戦に関する条約を批准していたのですが、
当時の「大日本帝国憲法」にはどの様に書かれていたのでしょうか。
この条約の批准より大日本帝国憲法が先に成立したこともあって、
大日本帝国憲法上には書かれていません。
第13条に開戦に関することが書かれています。
●大日本帝国憲法 1889年(明治22年)公布
第13条 天皇は戦を宣し和を講じ及諸般の条約を締結す
このような状態の中で、はたして日本はアメリカに対して
事前に宣戦布告したのでしょうか?
通説には「日本はアメリカに対する宣戦布告が
トラブルの為遅れた」と言われています。
そこでまず戦争開始を日本時間で見てみます。
●戦争開始
マレ-半島コタバルへの上陸開始
1941年12月8日 午前1時30分~2時15分
攻撃開始暗号 「ヒノデハヤマガタトス」
真珠湾攻撃開始
1941年12月8日 未明3時頃
攻撃開始暗号 「ニイタカヤマノボレ」
●宣戦布告の時期
1941年12月8日午前11時45分
東京で英米両国大使館に通告
宣戦布告よりも前に攻撃が開始されていることが分かります。
マレ-半島は英国、ハワイは米国です。
ですから宣戦布告は英米両国にされるのですが、
宣戦布告の実行は攻撃開始後なのです。
では米国にいた野村大使が
米国政府に渡すのが遅れたという文書は何なのでしょうか?
それは「帝国政府の対米通牒覚書」です。
宣戦布告書ではなく「米国に対する交渉打ち切りの通告」です。
日本政府は英米に対する攻撃を
宣戦布告なしで抜き打ち攻撃をしたのです。
色々と作戦上の事情はあるのでしょうが、
明らかに国際法違反です。
この通牒覚書はかなり長いものですが、
最後の方を抜粋します。
●帝国政府の対米通牒覚書原文(原文カナ))
六.尚帝国政府は交渉の急速成立を希望する見地より
日米交渉妥結の際は英帝国其の他の関係国との間にも
同時調印方を提議し合衆国政府も
大体之に同意を表示せる次第ある処
合衆国政府は英、豪、蘭、重慶等と屡(しばし)協議せる結果
特に支那問題に関しては重慶側の意見に迎合し前記諸提案を為せるものと認められ
右諸国は何れも合衆国と同じく帝国の立場を無視せんとするものと断ぜざるを得ず
七.惟(おも)うに合衆国政府の意図は英帝国其の他と苟合策動して
東亜に於ける帝国の新秩序建設に依る
平和確立の努力を妨害せんとするのみならず
日支両国を相闘はしめ以て
英米の利益を擁護せんとするものなることは
今次交渉を通し明瞭と為りたる所なり斯くて
日米国交を調整し合衆国政府と相携えて
太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は
遂に失はれたり仍て帝国政府は茲に合衆国政府の態度に鑑み
今後交渉を継続するも妥協に達するを得ずと認むるの外なき旨を
合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり
ついでに後から出された宣戦布告書も見てみます。
非常に読みづらいので
現代語に訳した文も後ろに書き加えます。
●大東亜戦争 開戦の詔勅 原文
(原文カナ、旧漢字や読み方はある程度直しました)
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐める
大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す
朕茲に米国及英国に対して戦いを宣す
朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し
朕が百僚有司は励精職務を奉行し
朕が衆庶は各々其の本分を盡し億兆一心総力を挙げて
征戦の目的を達成するに遺算なからむこをとを期せよ
抑々東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するは
不顕なる皇祖丕承なる皇考の作述せる遠猷にして
朕力拳々措力さる所而して列国との交誼を篤くし
萬邦共栄の樂を偕にするは之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり
今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る洵に看己むを得ざるものあり
豈朕が志ならむや中華民国政府に曩に帝国の真意を解せず
濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し遂に帝国をして
干戈執るに至らしめ茲に四年有余を経たり
幸に国民政府更新する
あり帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも
重慶に残存する政権は
米英の庇護を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず
米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱を助成し
平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす
剰へ與国を誘い帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し
更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を與え
遂に経済断交を敢えてし帝国の生存に重大なる脅威を加ふ
朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめむとし隠忍久しきに彌りたるも
彼は壱も交譲の精神なく徒に時局の解決を遷延せしめて
此の間却って益々経済上軍事上の脅威を増大し
以て我を屈従せしめむとす斯の如くにして推移せむが
東亜安定に関する帝国積年の努力は悉く
水泡に帰し帝国の存立亦正に危殆に瀬せり
事既に此に至る帝国は今や自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなりなり
皇祖皇宗の神霊上に在り
朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し
祖宗の遺業を恢弘し速に禍根を芟除して
東亜永遠の平和を確立し以て帝国の光栄を保全せむことを期す
御名御璽
昭和十六年十二月八日
●大東亜戦争 開戦の詔勅 現代語訳
神々のご加護を有し、万世一系の皇位を継ぐ第日本帝国天皇は、
忠実で勇敢な汝等に示す。
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。
私の陸海軍将兵は全力をあげて交戦に従事し、
私の総ての政府関係者は勤めに身を捧げ、
私の国民は各々その本分を尽し、
一億の心を一つにして総力をもってこの
戦争の目的を達成するため手違いがないようにせよ。
そもそも東亜の安定を確保して世界の平和に寄与することは、
大いなる明治天皇、大正天皇が構想されたことで
偉大なる計画であり、私は常に思っていることである。
そして各国との交流を篤くし、万国共栄の喜びを共にすることは、
我が帝国外交の要としているところである。
今や不幸にして米英両国と戦争を開始するに至たり
誠に止むを得ない事態となった。
このような事態は私の本意ではない。
中華民国政府は以前から我が帝国の真意を理解せず、
みだりに闘争を起こし、東亜の平和を乱し、
ついに我が帝国に武器を取らせる事態に至らしめ、
すでに4年以上経過している。
幸い国民政府は南京政府に変わった。
帝国はこの新政府と善隣の関係を結び、提携するようになったが、
重慶に残る蒋介石政権は米英の庇護をあてにして、
兄弟のような南京政府とはいまだに争う姿勢を改めない。
米英両国は残存する蒋介石政権を支援し、
東亜の混乱を助成し、平和の美名にかくれて
東洋を征服する非道な野望を逞しくしている。
あまつさえ色々な国を誘い我が帝国の周辺において、
軍備を増強し、我が国に挑戦し、
更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を加え、
ついに意図的に経済断交をして、我が帝国の存在に重大な脅威を与えている。
私は政府に事態を平和に解決させようとし、
長い間忍耐をしたが、
米英は少しも譲りあう精神が無く、
むやみに事態の解決を遅らせようとている。
その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、
我が国を屈服させようとしている。
このような事態が続けば、
東亜の安定関して我が国がはらってきた長年の努力は、
ことごとく水の泡となり、
我が帝国の存在もまさに危機になる。
ことここに至っては、
我が帝国は自存と自衛の為に決然と立ち上がり、
一切の障害を破砕する以外にはない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、
私は汝等国民の忠誠と武勇を信頼し、
祖先の遺業を押し広め、速やかに禍根を取り除き、
東亜に永遠の平和を確立し、
それによって帝国の光栄の保全を期するものである。
この開戦の詔勅を見て気がつくことは、
どこにも戦争に関する国際法を守れと書いてないことです。
明治以降の戦争、日清・日露・第一次等の詔勅には
すべて国際法を守ることが書かれてあります。
この事が戦争中の捕虜の虐待や虐殺その他の
非人道的行為が多かった原因でもあるかもしれません。