12月14日、
日本では各地で南京陥落を祝賀する
行事が大々的に行われました。
昭和天皇は南京占領を喜ぶ「お言葉」を下賜しました。
政府や軍中央の命令を無視して
独断専行で南京占領したことを、
天皇は初めて褒めたのです。
● 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉
(原文はカナですが内容は原文どおりです)
中支那方面の陸海軍諸部隊が
上海付近の作戦に引き続き勇
猛果敢なる追撃をおこない
速やかに首都南京を陥れたることは
深く満足に思う
この旨将兵に申伝えよ
軍中央の統制を無視していた事で
多少の負い目を感じていた
司令官松井石根は、
天皇のこの「お言葉」に大感激し、
日記に「一同感泣、ただちに全軍に
令達するとともに、奉答の辞を電奏す」と
書いています。
天皇が自分を認め「お褒めの言葉」までもらったことに
感激した松井司令官は張り切って、
陥落後、わずか4日目の17日に
南京入城式を大々的に行う計画を立て、
それまでに徹底した掃蕩をするよう命令しました。
しかし17日ではあまりに早すぎて
掃蕩上あるいは準備の上で無理であると
各部隊の責任者は反対しましたが、
司令官は頑として意見を聞かず入城式は強行されました。
● 入城式前日16日の松井石根の日記
かくて明日予定の入城式は、
なお時日過早の感なきにあらざる、
あまり入城式を遷延するも面白からざれば、
断然明日の入城式を挙行することに決す
入城式を伝える日本の新聞報道です。
● 東京日日新聞 12月12日 上海本社特電(15日発)
☆明日輝く南京入城式 翌日・陣歿将士慰霊祭
南京陥落後城内掃蕩も完了したので
いよいよ晴れの入城及び
慰霊祭が行はれることとなった。
入城式は17日午後1時半中山陵、
中山門外から国民政府までの
約1キロ半にわたる沿道に
各殊勲の代表部隊が堵列、
朝香宮殿下を初め奉り、
松井最高指揮官、
長谷川第三艦隊司令長官等が
各幕僚を随え威風堂々入城、
国民政府において乾杯を行ひ
万歳を唱和する予定である・・・・
なほ南京攻略名誉の戦死者の慰霊祭は
翌18日国民政府で厳かに執行される予定である。
17日に入城式を強行する事の無理は、
掃蕩や治安の面からだけではありませんでした。
中支那派遣軍の直下の上海派遣軍の司令官は
皇室の朝香宮(昭和天皇の叔父)です。(12月2日任命)
皇室の身に何かあったら一大事です。
その事も各部隊の反対理由でもありました。
しかし17日に決まった以上、
治安の為に今までより徹底した掃蕩作戦が
14日から17日にかけて行われました。
一刻も早く軍政をしき、
民心を安定させることをしないで、
ただ武力で強引に片付ける、
つまり皆殺しにするということにしたのです。
そして17日の入城セレモニ-は行われ、
得意絶頂の松井中支那派遣軍司令官は
馬に乗って入城しました。
● 松井石根大将 陣中日記
中山門より国民政府にいたる間
両側には両軍代表部隊、
各師団長の指揮のもとに堵列、
予はこれを閲兵しつつ馬を進め、
両軍司令官以下随行す。
未曾有の盛事、感慨無量なり。
午後2時過ぎ国民政府に着、
下関より入場先着せる
長谷川海軍長官と会し、
祝詞を交換したるのち、
一同前庭に集合、
国旗掲揚式につづいて
東方にたいし遥拝式をおこない、
予の発声にて大元帥陛下の万歳を三唱す。
感慨いよいよ迫りつつ
ついに第二声を発するをえず。
さらに勇気を鼓舞して
明朗大声に第三声を揚げ、
一同これに和しもって歴史的式典終了す。
朝香軍司令官殿下、
最も御健祥に御機嫌またきわめて麗しく、
とくに予の部下として軍司令官の職に
励みたまう趣旨のほど、感激にたえず
占領後の計画もなしに、
とにかく入城式はおこなったものの
日本軍兵士の不満は溜まりに溜まっていました。
そこへ各部隊でも祝賀会が催され、
掠奪した酒で日本軍は総酔っ払い集団化し、
略奪・放火・強姦・殺人が横行しました。
特に忌まわしい強姦事件は17日以降に急増しています。
● 松井石根大将 陣中日記
12月20日
なお聞くところ、城内残留内外人は
一時少なからず恐怖の情なりしが、
我軍の漸次落ち着くと共に
ようやく安堵しこれり。
一時我が将兵により少数の掠奪行為
(主として家具などなり)強姦などありと、
多少はやむなき実情なり
12月21日
挹江門付近下関を視察す。
この付近なお、狼藉の跡のままにて
死体などそのままに遺棄せられ、
今後の整理を要するも
一般に家庭などの被害は多からず、
人民もすでに多少ありて帰来せるを見る
17日の入城式の翌日慰霊祭が行われました。
その時の松井司令官は将校の前で
異例な訓示をしました。
出席していた同盟通信社上海支局長の
松本重治「上海時代」からその内容を抜粋します。
なおこの訓示は17日に行われたという説もあります。
● 松本重治「上海時代」から
・・・・「おまえたちは、
せっかく皇威を輝かしたのに、
一部の兵の暴行によって、一挙にして、
皇威を墜してしまった」という叱責の言葉だ。
しかも、老将軍は泣きながら、
凛として将兵を叱っている。
「何たることを、おまえたちは、してくれたのか。
皇軍として、あるまじきことではないか。
おまえたちは、今日より以降は、
あくまで軍規を粛清に、
絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。
それが、また戦病没者への供養となるであろう」
云々と、切々たる訓戒の言葉であった。
私は心に「松井さん、よくやったなあ」と叫び、
深堀中佐(報道部長)を顧みて、
「日本軍の暴行、残虐は、今、
世界に知らされているんだ。
何とかして松井大将の訓戒のニュ-スを
世界に撒きたいのだ。
ぜひとも報道部長の同意を得たい」と頼むと、
深堀中佐は「松本君、僕は大賛成だ。
だが、今より方面軍の参謀から
OKをとってくるから、
ちょっと待っていてくれ」という・・・・
中国の作家林語堂もこの訓示について
「嵐の中の木の葉」で次のように書いています。
● 戦勝者である日本軍は、
敗戦者である中国軍が崩壊したよりも、
もっと不名誉な崩壊ぶりをさらした。
日本軍は、暴淫にふけって、
前進を続けることが不可能になり、
日本軍総司令官の松井石根をして、
“日本軍は世界で最も風紀の悪い軍隊である”と
言わしめるに至った。