南京戦で、何人の人が亡くなったのかは
現在でも分かりません。
学問的には全ての歴史学者(右よりの学者も含め)が
大量虐殺のあったことを認めています。
ただ人数が決定できないだけです。
虐殺がなかったと否定する人たちは
何の根拠も無くただ主張しているだけにすぎません。
そしてたとえ数千人であったとしても
大量である事は間違いないことです。
敗戦前後に証拠隠滅で焼却したため、
中支那方面軍の全連隊の中で
戦闘詳報や陣中日誌の類を
公刊・公表しているのは1/3位しかありません。
そのことも結論を出せない原因です。
人数を確定するには色々な方法があります。
日本軍の記録、欧米人の記録、
中国人の目撃証言、
各種団体による埋葬記録などです。
しかし、それらを調べても完全には分かりません。
かなり重複している可能性があることと、
兵士や民間人の区別がしづらいからです。
さらに大量の死体を揚子江に投棄しましたので
さらに分からなくなっています。
● 早尾軍医報告書「戦場心裡の研究」から
下関には支那兵屍体が累々と重り
是を焼き棄てるために集められたのである。
目を揚子江岸に転ずれば此処に山なす屍体であった。
其の中に正規兵の捕虜の処置が始まり
海軍側は機関銃を以て
陸軍は斬殺、銃殺を行ひ
其の屍体を揚子江へ投じた。
死に切れない者は下流に泣き叫びつゝ
泳ぎ行くを更に射撃する。
それでもわかる範囲で数を調べることは
大事なことです。
多くの資料から整理した
渡辺久志氏の論文を参考にします。
[日本軍の部隊記録から集計する]
国の関係機関に記録が残されているのは僅かです。
個人所有の従軍手帖からも集計できます。
しかしこれでも全てが分かるわけではありません。
捕虜を捕獲した部隊が
捕虜を他の部隊に引き渡す事もあります。
又、集計する時期も厳密に考えれば
南京陥落までと、それ以降の殺害を
分ける必要があるかもしれませんが、
陥落までの捕虜を後で殺害した事が多いので
区別しないで列挙します。
12月1日から最終的な南京攻撃が始まりましたが、
最も多くの軍民が被害を受けたのは、
日本軍が17日の入城式までに行った
徹底した掃討作戦の期間です。
この時は戦闘終了後ですから
多くの居留外国人の目に触れる事になりました。
掃討を行った部隊は第16師団、第9師団、第10軍です。
日本軍の分かる範囲の資料から
南京陥落前後の殺害数を整理します。
戦闘詳報や陣中日記等信頼性のある数字だけです。
日付の確定が出ないものもあり、
重複していることも多いので集計はしません。
また第13師団の山田支隊(第65連隊)は
以前書きましたのでここでは重複します。
以下の日本軍の資料は
南京戦に参加した全部隊の1/3以下の資料です。
実際はその数倍はあるだろうことを
念頭においてみていただきたいと思います。
第5師団 | 国崎支隊歩兵第41連隊第12中隊 | 13日 | 約5,000 | 戦闘詳報 |
14日 | 2,350 | 戦闘詳報 |
第6師団 | 攻撃中に | | 5,000 | 戦時旬報 |
10~13日 | 17,000 | 戦時旬報 |
12~13日 | 1,700 | 戦時旬報 |
歩兵第45連隊第2中隊 | 9日 | 110 | 陣中日誌 |
第9師団 | 歩兵第7連隊 連隊長伊佐一男大佐 | 13~24日 | 6,670 | 日記 |
第13師団 | 山田支隊 | 14日 | 14,777 | 飯沼守日記 |
16~17日 | 20,000 | 陣中日記 |
第16師団 | 師団長日記 | 13日 | 24,000 | 中島今朝吾日記 |
歩兵第33連隊 | 10~14日 | 3,096 | 戦闘詳報 |
歩兵第38連隊 | 13日 | 5~6,000 | 戦闘詳報 |
歩兵第38連隊第10中隊 | 14日午前 | 7,200 | 支隊長日記 |
佐々木支隊 | 14日 | 20,000 | |
| 数千 | 支隊長日記 |
日記には | | 2万以上 | 支隊長日記 |
佐々木支隊第1中隊 | 13日 | 1,300 | 中島今朝吾日記 |
重砲兵第2大隊 | 13日 | 7~8,000 | |
歩兵第20連隊 | | 800 | 北山日記 |
| 310 | 牧原日記 |
| 1,800 | 牧原日記 |
| 150~160 | 牧原日記 |
| 600 | 増田記録 |
佐々木支隊 | 24日~1月5日 | 数千 | 支隊長日記 |
第114師団 | 歩兵第66連隊第1大隊 | 12~13日 | 1,657 | 戦闘詳報 |
野戦重砲兵第15連隊(捕虜を他部隊に引き渡した) | 14日 | 20,000 | 永井・従軍手帳 |
[殺害して揚子江に流した例]
南京陥落の時多くの軍人や市民が
揚子江に脱出しました。
その避難民を日本軍は船や河岸から
機関銃で殺害したり、
または捕虜を揚子江に連れ出し
殺害して河に流しました。
当然上記資料と重複しますし、
後で述べる埋葬記録には含まれない可能性があります。
◎第16師団佐々木支隊第33連隊
戦闘詳報
2000人以上
◎第16師団佐々木支隊第33連隊第3大隊
松村芳治 故郷への軍事郵便
50000人
◎第2碇泊場司令部
12月16日 2000人 梶谷健郎日記
17日 2000人 同上
◎海軍第11戦隊
12月13日 10000人 掃海研究会記録
14日 約700人 軍艦熱海
15日 約500人 第2号掃海艇
約700人 軍艦栂
16日前後 数千
◎近衛工兵連隊・岩崎昌治 陣中書簡
揚子江の川べり遺体ごろごろ 5,000名位
次は主として中国の資料です。
[目撃証言から(主として中国人)]
● 唐世杰「この事実を・・・生存者証言集から」
12月13日 浦口東門 4~500人
● 伍長徳 他「この事実を・・・生存者証言集から」
12月15日 漢中門外、土手 2,000名余
● 邱栄貴「この事実を・・・生存者証言集から」
12月15日 江東橋一帯 1,000人以上
遺体は河に入れられ橋にされた
注:遺体を積み上げて
その上に板を敷いて
橋や道にしたのです。
● 蒋坤「27人が語る南京事件から」
12月16日 陰陽営の野菜畑 約160人
● 巌洪亮「この事実を・・・生存者証言集から」
12月 草鞋峡・老江口 3,000人以上
● 陳徳貴「この事実を・・・生存者証言集から」
12月17日 煤炭港倉庫外 2,800人余
● 孫からヴォ-トリンが聞き取り「南京事件の日々」
12月23日 金陵寺南方 60~100名
● 陳家寿「27人が語る南京事件から」
上海路付近の沼 200人
● 劉聚才「120人の証言」
揚子江をたくさんの死体が途切れなく流れていた
[中国側の研究資料から]
中国では南京事件の被害者を
かなり多く見積もっている、
少しオ-バ-ではないかという意見があります。
実際には数字を確定することはかなり難しく、
また1万人でも10万人でも虐殺は虐殺なので
数にこだわる必要はないという意見もあります。
しかし学問的には実際の数字に近づけるよう
調査研究の努力を続けることは大事なことです。
最近では中国政府もこの事件を
政治的に利用しないで学問的に
調査をするようにしています。
● 孫 宅巍 論文 江蘇省社会科学院研究員
1998年「南京事件をどう見るか」より
調査可能な記録に基づいて
1000人以上の虐殺があった例
漢中門外
2000人あまり 12月15日
中山埠頭
5000人あまり 12月16日
下関一帯の単耀亭
4000人あまり 12月16日
煤炭港
3000人 12月17日
草鞋峡
57000人 12月18日
三汊河
2000人 12月中
水西門外、上新河一帯
28000人 同上
城南鳳台郷、花神廟一帯
7000人あまり 同上
燕子磯江周辺
50000人あまり 同上
宝塔橋、魚雷営一帯
30000人あまり
その他規模が異なる散発的な
虐殺事件が870回ばかりある。
1回の犠牲者は少ないケ-スで
12人から35人、
多いときに数10人から数100人だ。
[市民個人による埋葬]
● 芮芳緑・張鴻儒・楊高才
1945年12月8日証言「中国関係資料から」
奉仕埋葬隊を組織
難民 5,000体
兵士 2,000体
● 盛世微・昌開運「中国関係資料から」
28,730体を埋葬
● 陳国興「この事実を・・・生存者証言集から」
30体余を埋葬
[埋葬記録から集計する]
多くの埋葬団体の埋葬記録が
全て残っているとは限りませんし、
重複している場合もかなりあるでしょう。
それに少人数や上海から南京まででは
埋葬していないこともあったでしょうし、
河に流された死体も膨大な数です。
戦闘死と殺害の区別も付きません。
さらに資料によっても微妙に数字が異なります。
どの範囲、いつの時点で
集計するかによっても数字は異なりますし、
転記する際にも数字は四捨五入等で変わります。
● 世界紅卍会南京南京分会救済隊
埋葬班死体埋葬統計表
(中国の大規模な慈善団体)
南京城内
1,793体
37年12月22日~38年2月27日
城外区(城区・城壁周辺の近郊区)
41,330体
37年10月30日まで
合計 43,123体
● 世界紅卍会八掛洲分会
10,000余体
● 南京市崇善堂埋葬活動一覧表
(南京にあった慈善団体)
城内 7,549体 38年4月6日まで
農村地区 104,718体 38年4月20日まで
合計 112,267体
上の2つは東京裁判で証拠として
提出されたものです。
それ以外の埋葬記録では
● 中国紅十字会南京分会(赤十字の事)
南京周辺で
22,671体(22,683体) 38年1月から5月
注:日本軍占領下で行われた赤
十字の活動なので正確と思われる)
注:ヴォートリンの日記には
30,989体となっている。
● 南京市政府衛生局
(日本軍が作った傀儡機関・南京自治委員会)
10,794体(7,400体) 38年から40年
● 南京代葬局 10,000余体
● 長生慈善会 数不明
● 同善堂 7,000体あまり
● 日本軍 90,000体
これ以外に、撫順の戦犯管理所での
日本軍捕虜の大田寿男の供述書に、
12月14日から18日にかけて
碇泊場司令部で処理した
遺体約10万のうち、
9万を川に投げ入れたとある
[英文(欧文)資料]
● A.T.スティ-ル
シカゴ・ディリ-ニュ-ス 1937年12月15日
5000~20000人の兵士が殺害された
● ダーティン
ニュ-ヨ-ク・タイムス 1938年1月9日
20000人を処刑、一般人を含む33000人
● ルイス・S・C・スマイス(金陵大学社会学教授)が
助手を使っておこなったサンプル調査
◎南京地区における戦争被害
1937年12月~1938年3月
都市及び農村調査
注:日本軍の占領下で行動が
制限されている上に周辺5県の県城を
除外して農村部のみなので、
かなり少なく総数ではない
☆市部(城内及び城門外の下関と中華門外を含む)
死傷者 6,750名(7450名?)
死者 3,400名(3250名?)
(内訳 兵士の暴行によるもの 2,400名)
(爆撃、砲撃他 1,000名)
拉致されて殺害された可能性 4,200名
☆農村部
死者 30,905名
(内 殺されたもの 26,870名)
離村して帰ってこないも者 133,230名
注:農村部では六合県の半分と
高淳県を除いた4県半の調査です
この調査で、スマイスは市内と
城壁周辺の入念な埋葬資料調査から
民間人12,000人が虐殺されたと推測している。
● M.S ベイツの証言 金陵大学歴史学教授
東京裁判での証言から
南京陥落後72時間以内に
「国際委員会の雇った労働者」が
埋葬した軍人、市民の遺体が3万体に達した
● M.S ベイツの手紙
ノースチャイナ・ディリ-ニュ-ズ
1938年2月21日
非武装の人 10,000人以上
● G.A.フィッチ
サウスチャイナ・モ-ニングポスト
1938年3月16日
貿易協会そば 25,000人の遺体
● ジョン・マギ-がマッキム牧師に宛てた手紙
多くの屍体が友人や親族によっても
埋葬されています。
たとえば、ある城門から外側1マイルほどの
ところにある、わが教会の共同墓地の管理人が、
わたくしに申しましたのでは、
2,000から3,000の人々がその城外で殺され、
その地域の人々によって埋葬されたのでした。
● サウスチャイナ・モ-ニングポスト
1938年2月22日
8万人以上
● エドガ-・スノ-「アジアの戦争」 1941年
少なくとも42,000人が殺害、多くは婦女子
● ジョン・ガンサ-「アジアの内幕」 1939年
すなくとも40,000人が処刑
● 中国政府声明 1938年2月1日
ディリ-テレグラム、モ-ニングポスト
国際連盟理事会第6回議事録
20,000人
[当時の日本の新聞]
● 大阪朝日新聞 1938年4月16日
死体片付けは 城内で 1,793体
城外で 30,311体