当時中国国民党政府はドイツの
軍事顧問団を受け入れていましたし、
日本は1936年に日独防共協定が
結ばれていましたので、
日本や中国にとってドイツは友好国でした。
そのため南京戦が始まってからも
ドイツ大使館は存続し、
多くの外交官や一般人が残留しました。
その中に駐華ドイツ外交官の公式文書があります。
石田勇治氏が1990年代後半に
「ドイツ連邦文書館」や
「ドイツ外務省外交文書館」で発見したものです。
当時ドイツ外交官として
資料を残しているのは以下の人たちです。
オスカ-・トラウトマン
大使 漢口大使館
エンノ・ブラクロ
総領事 青島総領事館
マルティン・フィッシャ-
参事官 上海総領事館
1938年7月に大使に就任
ハインツ・ラウテンシュラガ-
参事官 上海総領事館
フェリックス・アルテンブルク
参事官 広東総領事館
ゲオルク・ロ-ゼン
書記官 南京大使館分館
ハンス・ビタ-
書記官 北京大使館分館
アルフレ-ト・ヒュルタ-
書記官 南京大使館分館
パウル・シャルフェンベルク
事務長 南京大使館分館
少し長くなりますがドイツから見た
南京戦の実態がよく分かりますので書きます。
翻訳も石田氏です。
● ドイツ外務省宛、発信者―トラウトマン
1938年2月16日付駐華ドイツ大使館第113号
文書番号 2718/1955/38 極秘
内容―1937年12月8日から
1938年1月13日までの南京における出来事
同封した資料は1937年12月8日から
1938年1月13日までの
南京における出来事に関する
或るドイツ人目撃者の報告である。
極秘の取り扱いをお願いする。
この秘密報告は、
フォン・ファルケンハウゼン将軍が
私に提供してくださったものである。
トラウトマン(署名)
注:フォン・ファルケンハウゼンは
蒋介石軍事顧問団の団長
作成者不明
(恐らくジョン・ラ-ベと思われる)
1938年12月8日、ヨ-ロッパ人は
南京を離れてジャ-デン社の
ハルク(老朽船)へ向かった。
南京城内に残ったヨ-ロッパ人は
総勢わずか22人で、
南京国際委員会として、
11月中旬に設立準備された安全区の
管理を引き受けた。
この安全区は日本の公式承認を
得てはいなかったが、
日本軍による南京陥落までおおむね尊重され、
砲弾が落ちることもまれで、
戦闘期の犠牲者も非常に少なかった。
12月8日、日本軍はすでに麒麟門に到達し、
大砲の轟音が城内でもはっきりと聞こえた。
12月9日には激しい空襲が一日中続いたが、
攻撃の主目標は南京城外の中国軍陣地、
城門、城内南部に集結中の中国軍に
向けられていた。
12月10日、日本軍はさらに進撃し
城壁の目前に迫った。
中山東路では機関銃と歩兵砲弾が炸裂し、
いたるところが空襲でひどく破壊された。
10日夜、紫金山が炎上し、
11日朝には日本軍は大砲を何台か据え付け、
そこから市街と中国軍陣地に砲撃を加えた。
12月12日の日曜日はとても静かに明けた。
日本軍砲兵隊はもはや城内を攻撃せず、
爆撃機もごく少数飛来しただけであった。
日本軍機が市街の上空低くに姿を見せると、
中国軍の高射砲がすぐさま発砲した。
昼近くになって、
戦闘はふたたび激しさを増した。
日本軍は、城門および自ら定めた
突破口に集中砲火をあびせた。
午後には浦口が、
中国軍部隊の退却を阻止しようとした
日本軍爆撃機による空襲を延々と受けた。
そのさい、ハルクを含むほぼすべての
英国船舶が甚大な損害を被った。
また日本軍の武装モ-タ-ボ-トも現れたが、
もっぱら河の中央を航行していた。
午後、中国軍の退却が徐々に始まった。
先頭を切ったのは城内南部の部隊であった。
命令によって退却開始は夜8時と定められていた。
しかし実際にはもっと早く始まった。・・・・
5時を過ぎるとテンポは速まり、秩序が崩れ始めた。
ついに真夜中近くになって退却は大潰走に変貌した。・・・・
12月13日の明方、退却の動きは静まった。
下関門は閉じられ、通行が遮断された城内に
残留したものはすべて包囲された。
このときまだ多くの人々が城内に集まっていたが、
かれらはおそらく敵の前に
最後まで踏みとどまった
最優秀な人々であった。・・・・
信頼すべき情報提供者が南京城内で
日本軍を最初に目撃したのは
12月13日午後遅くのことだった。
日本軍は当初、公正にふるまい、
ある程度協力的でさえあった。
国際委員会はすぐに日本軍と接触し、
安全区の承認を得ようと再度試みた。
この承認は拒否されたが、
いまや広い隊列を組んで新街口まで
進撃していた日本軍は事態を
静観する構えを見せた。
12月13日午後、国際委員会は病院として
使われていた外交部庁舎を引き継いだ。
そこの情況は絶望的で、
中国人負傷者は数日間
何の介護も受けずに放置されていた。
看護部員は全員逃亡し、
病室はどこも武器弾薬で溢れていた。
国際委員会は、日本軍が負傷者に
手出しする口実を与えないように、
武器弾薬を即座に運び出した。
安全区内で組織された中国赤十字は
ただちに協力態勢を整え、
夕方までに大部分の汚物と死体を
病院から運び出した。
そのため、夜に病院を捜索した
日本軍警備隊は干渉の根拠を
見出すことができなかった。
12月14日、日本軍の態度が一変した。
国際委員会は外交部病院で
中国人負傷者の看護を続けることを禁じられ、
立ち入りも拒否された。
また同日、急いた進軍のせいで
十分な給養を与えられていなかった
日本軍部隊が南京城内に放たれ、
正規軍としては言語に絶する行動に出た。
かれらは難民から奪えるかぎりの
備蓄食料、毛布、衣類、時計など、
要するに奪い取る価値があると
思われるものをすべて奪った。
抵抗すればいわずもがな、
物品を差し出すのに躊躇したり、
時間がかかったりした者にも
ただちに銃剣が見舞われた。
言葉や身振りをすぐに理解できなかっただけで
犠牲になった人も数多くいた。
こうした野蛮な暴兵たちは繰り返し難民区や、
混み入った家屋に闖入しては、
一足先に押し入った兵隊が残していった
物品を探し出して持ち去った。
外国旗を尊重する様子など一切なく、
われわれが使用人や財産を
この粗暴なふるまいから力ずくで守ろうとすれば、
日本兵の脅迫や侮辱を甘受しなければならなかった。
こうした組織的な強盗と略奪は14日間も続き、
いまもなお何かと理由をつけて
「徴発」を狙うさまざまな集団から
身を守ることは容易ではない。
中国軍の退却のさいにも、
何軒かの食料品店が押し入られて
略奪に遭い、所々で火の手が上がったが、
城内の大部分は南京陥落の時点では無傷であった。
ところが、日本軍支配下で城内の様相は一変した。
放火がおこなわれない日は一日たりともなく、
目下、太平路、中山東路、国府路、
建康路が順番に被害を受けつつある。
また、城内南部全域と夫子廟は
完全に略奪され、焼き払われた。
割合でいえば、南京城内全体の
30%~40%が焼失したとみていいだろう。
脱ぎ捨てられた多数の軍服は、
日本軍に、難民区には多くの中国軍兵士が
いると主張する格好の口実を与えた。
かれらは再三にわたって難民収容所を
徹底捜査したが、兵士とおぼしき者を
真剣に探す努力はせず、
まずすべての若者を無差別に、
次に何らかの理由で目に付いた者を全員連行した。
城内で中国人が日本軍に発砲したことは
一度もなかったにもかかわらず、
日本軍は少なくとも5000人を射殺し、
その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された。
こうして射殺された者のなかには、
市政府や発電所、水道局で働く
何の罪もない職員たちも含まれていた。
交通部庁舎脇の通りには、
12月26日まで、縛られて射殺された
30人ものク-リ-の死体が転がっていた。
また山西路から近い池の中には50人、寺院には20人、
江西路の端には1938年1月13日時点で
なお20人の遺体が散乱していた。
これとは別に悲惨だったのは、
多くの少女と女性にたいする虐待と強姦であった。
むやみな残虐行為は幼児にまで及び、
手足の切断もまれではなかった。
すべてのヨ-ロッパ人は南京城から
離れることを禁じられ、城内の移動は
日本人警備兵の警護つきでのみ許された。
それでも、12月28日には棲霞山にいって
食料の買出しに成功した人物がいた。
かれはそれまで、日本軍は抗日運動の拠点である
首都南京だけに懲罰を加えただけだと思っていたが、
周辺の田舎ではもっとひどいことが
おこなわれていることを目のあたりにした。
中国軍は退却時に軍事的な理由から
一部の村や農家を焼き払ったが、
日本軍はこの放火を組織的に続行した。
畑地や道路沿いに水牛、馬、ラバの
死体がおびただしく倒れている。
虐待、強姦、射殺は日常茶飯事である。・・・・
中国人の話では、上海から蕪湖までの地域は
似たような状況にあるという。
安全区はいまもなお、南京住民の
大部分をその内に保護している。
南京を見舞った運命の日々のなかで、
次の二つの事実が明らかになった。
1 南京要塞防衛の失敗
2 個々の日本兵ではなく、
日本軍全体の紀律の欠如、
日本軍全体の残虐行為と犯罪行為
この残虐な犯罪集団を
反共主義の尖兵の登場とみなし、
中国の刷新と解放を声高に諸外国に
たいして主張するのは笑止千万である。
かれらが蹂躙した跡には、
むき出しの共産主義とあらゆる悪徳分子、
劣等分子が出現する恐れがあるのだ。
● 駐華ドイツ大使館(漢口)宛
発信者 ビタ- 1937年12月30日付
文書番号 2722/4379/37
内容―日本軍による南京占領時、
および華北における中国人代虐殺
大使館に宛てて、
2本の報告の写しを送付する。
これらの目撃報告は、
中国における日本軍の非人道的な
戦争遂行の全過程で、
南京大虐殺ほど凄惨な殺戮は
これまでなかったとの点で一致している。
しかし、これらの報告は、
華北の京漢(北平-漢口)鉄道沿線の高陽で、
日本軍が14の村落を、匪賊と共産主義者を
片付けるとの口実で、女性や子どもを含む
全住民もろともに根絶やしにしたことを
見落としている。
同様に、華北の他の地域における
日本軍の新たな残虐行為に関する
報告が続々と届いている。
ただ、そうした行為は信頼できるヨ-ロッパ人の
目撃者が居合わせていない、
裏づけがとれないこともある。
しかし、この種の事件は
隠しおおせるものではなく、
高まる国内の民族運動をさらにいっそう刺激し、
戦争の深刻な急進化をもたらしている。
本報告の写しと添付書類は天津総領事館、
東京ドイツ大使館および
ベルリン外務省に送付される
ビダ-博士(署名)
(添付書類 省略)
● ドイツ外務省(ベルリン)宛、 発信者―ローゼン
1938年1月15日付南京ドイツ大使館分
文書番号 2722/100/38
[日本兵の残虐行為]
今月9日、われわれは2日にわたる
英国砲艦クリケット号の航行で
無事再び任地に戻り、
南京分館で1ケ月中断していた執務を再開した。
私は先の報告で、日本軍は自ら引き起こした
残虐行為が公的証人の目に
触れるのを避けるため、
われわれの帰還を引き延ばしたのではないかとの
推測を記したが、それは実証された。
信頼すべきドイツ人および米国人の
情報提供者の話によると、
外国代表者の南京帰任の意向が明らかになるや、
民間人・女性・子どもに対する
無意味な大量殺戮が生じた。
一部は路上にまるで「ニシンのように」
積み重ねられたおびただしい死体を
片付ける除去作業が大慌てで始まったのである。
数週間にわたる恐怖支配の間、
日本兵は南京市の繁華街、
すなわち太平路周辺と通称ポツダム広場以南の
全域を完膚なきまで略奪した後、
瓦礫の山と変えた。
そこでは、外側だけあまり被害のない
建物がぽちぽつと残っているだけである。
日本軍による放火は、日本軍の占領から
ひと月以上も経過した今日に至るまで続いており、
婦人や若い娘の拉致と強姦についても同様である。
この点で日本軍はここ南京において
自らの恥辱の記念碑を打ち立てたのである。
ラ-ベ委員会のおかげで何とか
破壊を免れたいわゆる安全区の中だけでも、
けだものじみた強姦は数百件も
ドイツ人や米国人によって、
またかれらの中国人協力者によって
異論の余地なく立証されている。
委員会が日本側当局に送った書類の束には、
実に衝撃的な内容が綴られている。
ただ現時点で書き留めておきたいことは、
とくにナチ党役員のラ-ベ、クレ-ガ-両氏
(ならびにシュペアリング氏)を含む外国人が、
強姦におよんだ日本兵を現場で取り押さえたり、
勇敢にも命がけで追い払ったことである。
鬼畜どもに抵抗しようとした
中国人の家族は多くの場合、
殺されるか、傷つけられた。
ドイツ大使館の庁舎内でも使用人の曹が、
敷地内にいる女性たちを引き渡せと、
銃剣を突きつけられて脅迫された。
曹は以前に大連で暮らしたことがあり、
いくらかは日本語が出来るので、
ここはドイツ大使館で女はいないと
日本兵に説明することができた。
だが、ここはドイツ大使館だと説明した後も、
脅迫は続いた。
大使の屋敷まで日本兵は何度も侵入し、
邸内の女性たちを差し出せと要求したのである。
米国伝道団病院(金陵大学付鼓楼病院)には
大勢で輪姦され、その後に銃剣で突かれたり、
他の負傷によって重大な被害を受けた
女性がひっきりなしに運び込まれており、
昨日も連れてこられた。
ある婦人は喉を半分切り裂かれ、
この不幸な女にまだ命があることを
ウイルソン医師自身が驚いたほどである。
ある妊婦は腹部に銃剣を突き刺され、
胎児は殺害された。
病院には暴行を受けた幼い少女たちが
多数運び込まれているが、
そのうちの一人は20回も立て続けに強姦された。
金陵女子文理学院の構内に設けられた
難民収容所には毎日日本兵が侵入し、
犠牲者を連れ去るか、
さもなければ家族を含めた他の人々の
面前で犯罪的な欲望を満足させていた。
輪姦の共犯者が犠牲者の夫や父親を押さえつけ、
家族の名誉が陵辱されるところを
見るように強いた事例も証言されている。
こうしたさまざまな事件に
将校たちが関与していたことが
マギ-牧師などによって立証された。
かれは中国人クリスチャンの一団をある
ドイツ人顧問の家に保護しようとしていたのである。
日本軍の暴兵は、数週間にわたり、
軍紀のすべてを振り捨ててしまった。
個々の犯人、あるいは犯罪に加わった
部隊にたいして上位からの処罰が下るのか、
下るとすればいかなる処罰かについては
不明である。
というのは日本側はこの件について
沈黙を押し通しており、
非は徹底して除去する方が、
どんな揉み消し工作よりも賢明であることを
理解しようとしないからである。
もはや戦う用意のない兵士だけではなく、
下士官の恣意的で抗弁無用の
判断で兵士とみなされた者も、
誰かれ構わず躊躇なく殺害することは、
日本軍の名誉とされている。
このことは当地では疑いのないことである。
1月9日午前、われわれが南京に戻る数時間前、
クレ-ガ氏とオ-ストリア人のハッツ氏は、
大使館のすぐそばで、
次のような武士道の実践風景を目撃した。
大使館通りの左側、
英国の義和団事件賠償委員会の建物と
通称バイエルン広場に挟まれたところにある、
一部は氷が張っている池の中に、
平服の中国人一人が腰まで水に浸かって立っていた。
池の前には日本兵2人が立ち、
背後の将校の号令に合わせて
その中国人が倒れるまで発砲した。
死体は今日になっても池に放置されたままである。
南京城内外、池や沼はどこも死体で汚染されている。
哀れな市民はこれらの沼池の水に頼らざるを得ない。
この点には注意を払うべきである。
われわれも日本当局に対し
毎日のように苦情を申し立てているが、
いまだにわれわれの家屋は市の水道につながらず、
地下水をポンプで汲み上げることに依存している。
こうした兵士の規律と秩序の崩壊状況の下で、
ドイツ国旗が尊重されなかったことは
とくに不思議ではなかろう。
すでに大使宛の報告で詳述したように、
さまざまなドイツ人家屋が悪ふざけで
放火され、ひどい略奪にあった。
ほとんどすべての家屋が
程度の差こそあれ盗みにあった。
略奪者がヒトラ-総統の写真や
ヒンデンブルグ陸軍元帥の肖像の前でも
思いとどまらなかったことは、
天皇の御真影にたいする日本軍の
崇拝を考えれば、実に由々しき事態である。
私は当初から日本軍にたいして
誤解の余地のない明確な態度を取った。
つまり、一切の軍事的必要性がなく、
占領後かなりの時間が経過した時点で
故意にもたらされたこれらの全被害にたいして、
ドイツは完全なる賠償を要求するということ。
そして日本軍が使う「慰謝料」という言葉は
日本側にはおそらく好ましい概念だとしても、
形だけの補償の表現としては
認めることはできないということである。
本報告が描写した陰鬱な光景は、
南京に滞在する外国人にとっては、
日本軍のこうした残虐性を誰も
想定していなかっただけに、
いっそう衝撃的であった。
潰走する中国兵、とくに四川省出身の
部隊の狼藉は確かに覚悟していた。
だが、日本兵のそうした行為は考えたこともなかった。
むしろ、日本軍が来れば平和と安寧が
戻るのではないかと予想していたほどである。
したがって、行われた残虐行為について
誠心誠意の証言をした人々にたいして、
それが恨みや偏見であるとの非難があってはならない。
同じことを本報告における
私の記述についても要求したい。
私は、満洲でおこなった自分自身の
観察と長江での我々の経験にもとづいて、
日本軍に関して、また日本軍が道義上、
ドイツとの同盟にふさわしい力量を
もっているかに関して、
自分なりの意見をもっているが、
私にとって肝心なのは相変わらず
ドイツの利益だけである。
当地で高潔なる日本に遭遇していれば、
そのほうが双方にとって
間違いなくよかったはずである。・・・・・