土佐沖への毒ガス投棄
帝国人絹株式会社(帝人のこと)三原事業所が
1970年9月20日に「帝人のあゆみ」という社史を発刊しました。
その社史とその他多くの資料を参考に
栗原透氏が調査し論文を発表しています。
その要点です。
●土佐沖に海没した毒ガス問題について
土佐沖の海没毒ガスを調査する会代表委員 栗原透
毒ガス展実行委員会 公開シンポジウム
「悪魔の兵器の廃絶をめざして」資料から
「残量量」
大久野島で生産された毒ガス総量 6,616トン
敗戦時同島に残存していた量 3,200トン(約)
アメリカ軍報告書にある残存量 3,647トン(大久野島と大三島合計)
英連邦軍が確認した残量量 3,260トン
帝人社史に記載された量 3,240トン
「経緯」
1946年1月22日、
大久野島毒ガス工場を帝人に払い下げることが決定
条件として毒ガスの処理を帝人が担当すること
英連邦軍には化学兵器の処理担当将校がいなかったため、
アメリカの騎兵第1師団の
化学兵器将校ウイリアムソン少佐が派遣された。
5月27日から帝人が作業を開始した。
ウイリアムソン少佐は、大部分の毒ガスを
老朽化した上陸用船艇LSTに搭載し
海洋で船もろとも爆沈海没される計画をたてた。
「投棄された毒ガス」
毒液 1,845トン
毒液缶 7,447缶
くしゃみ剤 9,901缶
催涙剤 131缶
60K毒ガス弾 13,272個
10K毒ガス弾 3,036個
「投棄した日時と場所」
第1船
8月21日21時50分、LST814がア
メリカ軍曳航LT636に曳航され海没した。
場所は 北緯32.37度
東経134.13度
桂浜から113km、足摺岬から111km、室戸岬から69km
深さ 2,000m~2,300m
第2船
8月26日、LST128が興津丸に曳航され海没した。
場所は 北緯30.38度
東経132.22度
足摺岬から235km南、都井岬から125km東
深さ 3,000m~3,200m
第3船
10月27日、LST128が興津丸に曳航され海没した。
場所は 北緯32.30度
東経133.55度
足摺岬から122km南、室戸岬から88km東
深さ 1,200m~1,500m
8,000個以上の60Kマスタ-ドガス弾や
充填された400トンの毒ガス容器、
300トンの残留物コンテナ-など
1,800トン等を沈めた。
このようにして土佐沖に投棄されましたが、
それ以外に別府湾に投棄された毒ガスがありますが、
別府湾が浅くて危険なため
引き上げ再度土佐沖に投棄されました。
計4箇所に投棄されたということになります。
具体的に土佐沖のどの辺りなのか、地図で示します。
土佐沖の毒ガスは現在でもそのままです。
塩水で腐食されてジワジワと
漏れ出している可能性があります。
可能な限り場所を特定し
回収処理を進める必要があります。