原子力の平和利用
第二次世界大戦後のアメリカではソ連との核兵器開発競争が続けられました。
いくらアメリカが先行して開発してもすぐソ連が追いつく状態でした。
そこでアイゼンハワ-大統領は思い切って政策の転換をすることになりました。
それが核の平和利用でした。
1953年12月8日、国連総会での「アトムズ・フォ-・ピ-ス」演説が始まりです。
●演説の要点
先進4ケ国による核兵器開発競争が世界平和にとって脅威になっている。
この状況を変えるためにもアメリカは世界各国に原子力の平和利用の促進を呼びかける。
アメリカはこの線に沿って原子力の平和利用に関する共同研究と開発を各国とともに進めるため必要な援助を提供する用意がある。
そして、これにはアメリカの民間企業も参加させることにする。
さらにこのような提案を実現するために国際機関(のちの国際原子力機関:IAEA)を設立することも提案する。
注:先進4ケ国とはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連
演説の中で述べられた「必要な援助を提供する」ことの対象国に選ばれたのは、
アジアではトルコ・イラン・イラク・インド・パキスタン・フィリピンです。
現在核兵器の開発でアメリカと揉めている国が多いのですが、アメリカが蒔いた種でしょう。
戦争でアメリカと戦ったせいでしょうか日本は表立って援助の対象国になりませんでしたが、内々話を向けてきました。
1953年末からアメリカCIAの心理作戦として日本に情報を流す事が始まりました。
流される情報の提供は「いかにも作為的に行なわれていると日本人に気付かれないように細心の注意を払って(心理戦局文書による)」されました。
具体的にはアイゼンハワ-大統領の「アトムズ・フォ-・ピ-ス」に好意的な世論を作り出すことです。
そのために選ばれたのが正力松太郎の読売新聞です。
1954年元旦からスタ-トした読売新聞の「ついに太陽をとらえた」は大成功で国民世論を原子力に向かせる事に成功しました。
注:何故正力や読売なのかと言うと、読売グル-プは正力松太郎の支配力が強いため最も扱いやすいという利点が あったからです。
1954年1月、アメリカ国務省は「原子力発電の経済性」という秘密文書を日本政府に出しました。
(日本の原子力:日本原子力産業会議)より
その後電力業界関係者と政治家が中心となり原子力の平和利用を日本に取り入れる準備が進みました。