1941年、日本軍資料

●  井本日誌 (1941年分)

 1月15日

  渡辺参謀から「ホ」の件

  媒介物を欲す

  補給手段

  適当なる容器が必要(取扱を簡易にす)

  実用の際航空部隊にやらせるか、

  特殊部隊とするか

  重爆にて夜間攻撃にて奇襲的に

  実施するを可とすべし

 

 2月5日

  ㋭の研究

  作戦経過

  将来運用法

  仮想作戦方針

  外国の非難等に対する責任を誰が負うか

   医務局

    中留金蔵・金原節三医事課員・

    渡辺甲一衛生課長・鎌田調医事課長

   石井部隊

    石井大佐・太田澄・山本参謀

    福森・碇常重・金子順一・野崎

   北支那防疫給水部

    西村英二・板倉

 

 2月7日過ぎ

  北支現在の装備

  14年秋 21万円 細菌兵器の研究に

  資する如く施設を始め9分通り完成

  ロックフェラ-接収計画を樹立しあり

    注:中国名協和病院のこと

  「□□」と連絡しあり

  彼は日本軍より利用するという意向を

  明示せば明渡すの已む無し考えあり

  セイカ大学の建物位置共に格好の位置なり。

  いまや米より支那側に渡しあり

  軍との諒解は之から利用する如くつきあり

  弾薬、5kgは現在の施設をもって製作可能なり

  ノミの製産に援助し得る如く希望す

 

 3月25日

早川少佐から㋭の確立の為雨下器 

14万円の連絡

 

 3月26日

石井部隊に行き研究を見

予算の問題 膨大すぎる

台湾、平房等に関する計画も膨大すぎる

 

 9月1日

増田中佐から9月一杯に実施を希望す

之は実施することとす

 

 9月5日

㋭に関する連絡

大体やる決心で行く

 

 9月12日

㋭の件

大体之で行く

 

 9月15日

㋭の件決定

 

 9月16日

㋭の大陸指発令

 

 11月25日

  長尾(注:長尾正夫支那派遣軍)参謀より㋭の件

  11月4日 

   朝目的方向の天気良好の報に接し97軽1機出発

   0530出発 0650到着

   霧深し Hを落として捜索、

   H800付近に層雲ありし為1000m以下にて実施す

   増田少佐操縦、片方の開函不十分 

   洞庭湖上に函を落す

   アワ36kg、その後島村参謀捜索しあり

  11月6日 常徳附近に中毒流行

 日本軍は飛行機1機にて常徳附近に撒布せり、

 之に触れたる者は猛烈なる中毒を起す

  11月20日頃 猛烈なるペスト流行

   各戦区より衛生材料を収集しあり

注:患者や死者から組織を切り取って集める事)

 判決

 命中すれば発病は確実

 

 12月2日

  宮野大佐から「常徳を中心とする湖南にては

  ペスト猖けつを極めあり」

 

 12月22日

  増田少佐より(ホ)

  1.  部隊の士気上る アワに対する自信

  2. 主要兵器  アワ第一

   使用機 99式LB  百型偵察機     

   高空雨下の場合は航空炸裂弾

  3. 実施時期来年 6月以降 (8月 10月)

  4. 人員可能 ラット 

   30万手に入る見込,設備も大体可 

   5.20Kg作る為の装置は現在即可能

  6. 北支には石油缶2万あり 

   人と金あれば10-20Kgは出来る

   中支は鼠に困る,(種ノミはある)

   南支にも種鼠はある

  7.ヂ弾は7000(信□2000)あり

   ロ弾(著地19000発) 

   ハ弾(1350発) 

   サニ弾(3000□□の為) 

   □□□□(1万3千円分必要 

   ウ弾(雨下用)3000発(同上)