日本軍人の証言
日本軍の一般兵士の証言です。
●富島 健司伍長 第59師団第54旅団第110大隊
1943年渤海湾沿岸を荒らし回っていた頃の事です。
12月8日、潅木地帯の人家に数日前から泊り、
この辺りに物資が隠してあるに違いないと、
40歳位のお百姓さん2人に火あぶりの折檻をして殺しました。
それからさらに次の掃蕩のため20分歩いても
まだ風に乗って人間の焼ける臭いがしていた。
突然「いたぞ!!小隊長殿!!女です」と小沢一等兵が怒鳴った。
畑のそばの窪地に日本軍によって
メチャメチャに破壊された人家の跡があり、
陽だまりに8人の女が12月の冷たい風のなか
ボロボロの着物1枚を身に着けて
震えながら身体を寄せ合っていた。
こりゃいいものを見つけた。
殺すのはもったいない。
今からいいものを見せてやる。
いいか、今日は12月8日の記念日だからな・・・・
(注:恐らく真珠湾攻撃のことだと思われる)
「権藤通訳!!あの右から2番目の女を引きずり出せ、
あの道案内のどん百姓をやらせる!」
朝鮮出身の権藤通訳は棒を振り回しながら
所かまわず穴の中の女たちを殴りつけた。
突然「オギャ-オギャ-」と赤子の泣き声が聞こえた。
3人の乳飲み子が8人の女に守られていた。
私は「この餓鬼ら!こん畜生」と蹴り飛ばした。
女を力ずくで引きずり出した。
「この老いぼれ!このアマッ!やらんか」
権藤は狂ったように棒を振るった。・・・・
こうして、老人と女は涙を流したまま重なって動かなくなった。
次は17~8のきれいな娘だ。
穴に飛び込むと母親の後ろに隠れた。
「くそ婆ッ、じゃまだ」私は靴で老婆の肩を蹴り倒した。
泣いてすがりつく娘の下着を引き裂いた。
「いいぞ、犬だ、犬をやらせろ!」
私は嚇かすために銃剣で刺し、
犬のように歩かせ笑いながら殴りつけた。
「女たちは特別助けてやる。
男だけをやってしまえ」青木少尉は命令した。
その夜老人は焼殺しました。
翌日私は水島上等兵と2人でまた女の所へ行き
拳銃を突きつけ、殴りつけて強姦しました。
●石田 幹雄兵長 東部第63部隊 1945年に第54旅団第110大隊に配属
中国に上陸以来半年もたたない内に
4回の討伐に参加した。
戦闘をやる事よりも、
行く先々の農家に踏み込んで、牛、豚、鶏を殺して、
椅子、農具、棺桶までも燃やして
「野戦料理」を食うのが討伐だと思うようになっていった。
古年兵は「討伐に行けば酒も女もついて回るし、
討伐様々だ」と言っていた。
「村落討伐」の時、
村から逃げ遅れた女を見つけると必ず手込めにした。
魯東作戦の時(1942年12月)
誰もいないと思っていた家で女を見つけた。
飛びかかった私は相手の両肩を鷲づかみして
壁から引き離した。
突然赤ん坊の泣き声がして
オンドルの中央に転がってきた。
私は必死に赤ん坊を抱きしめる母親から
服を剥ぎ取ろうとしたが思うようにならなかった。
そこで私は片足で母親の肩を踏みつけ
母親の手をねじ曲げギャ-ッと悲鳴を上げる
赤ん坊を取り上げた。
そしてオンドルの大きな釜の煮立つ湯に
赤ん坊を投げ込んだ。
そして泣き叫ぶ母親の頭に布団をかぶせ強姦しました。
●植松 楢数 憲兵軍曹
1942年4月、承徳憲兵隊に到着した私は、
安藤次郎中佐から訓辞を聞かされた。
「この熱河は満州で一番治安の悪い中国共産党の巣窟だ!
ここに住んでいる中国人は皆共産党の匪賊であり、
その親類の奴らだ。
従って我々皇軍なかんずく憲兵が
この匪賊を一人残らず粛清することは非常に重要な責務である。
男、女の区別なく、全部捕まえてしまえ!
そして使いものにならん奴は、
子供だろうが老いぼれだろうが、
全部殺してしまえ!
なまじっか情け容赦する事は、
かえって敵を残すことになる。
さらに匪賊どもの根を絶つために、
建物の一切は勿論、草木一本も残してはならぬ・・・・」と。
1943年3月19日、
放火と掠奪殺人の専門集団であった
承徳憲兵隊は熱河省興隆県芳山地区を掃蕩した。
部落を襲い、若い男を除き他は全部射殺しろとの命令であった。
(注:若い男は日本へ強制連行・労働の計画だった)
隊長は生田省三憲兵大尉だった。
村人はほとんど逃げて、
老人と病人の27人位が残っていた。
八路軍の行方を言わない
老人たちを集めて、棍棒でめった打ちにした。
私は自分が引きずり出した老婆を殴った。
ただ1回で死んでしまった。
「よろしいいつもの通り、どいつもこいつも全部殺してしまえ。」
「子供も皆殺せ」と分隊長が叫んだ。
私は拳銃で次々と射殺した。
まるでダルマ落としのパチンコみたいだった。
2歳位の男の子も頭を打ち抜いた。
見る見るうちに赤黒い血の海ができた。
そしてまだ生きている老人の頭に
藁くずを積み上げ石油をふりかけ火をつけた。
そして火のついた木切れを持って全部の家に火を付けた。