安達野外実験場
アンダ-(安達実験場)はハルビンから北へ
260Kmの所にあった野外の731部隊特設実験場です。
実験ではテスト用の色々なタイプの細菌爆弾に
ペストやコレラを始めとした多くの微生物を充填し、
空から爆弾を落とし、どの様に拡散するか感染するかの
実験を捕虜を使って行ないました。
また捕虜を使っての毒ガス実験も行ないました。
捕虜は数十人が実験場に建てられた木の杭に縛られて
爆弾による細菌、昆虫、毒ガスに晒されて
風気圧天候の変化による人体データ-を取られました。
これらの実験は細菌戦や毒ガス戦に
備えての実験でした。
現在は人口50万人の安達市になっていて、
実験場は市の特別歴史遺跡として保存されています
●1954年、黒龍江省公安庁が行ったと思われる調査
1.飛行場の設備状況
1942年9月、日本軍は2ケ月ほどかけて
この荒地に滑走路のない飛行場を建設した。
飛行場の面積は東西約1.5キロ、南北約2.5キロで
その周囲の東西12キロ、南北17キロは
誰も立ち入りを許されなかった。
飛行場内には100メートルにわたって小さな丘があり、
その丘に沿って家屋が造られた。
(丘に溝を掘って上に覆いをかけた地下室で、20から30あった)
飛行場の地上には、
東西に1棟5部屋の倉庫、北側に3部屋の浴場、
西南の角には2部屋のバラックがあり、
その東西4~5キロキロのところに
背の高い大きな櫓が4つ組まれていた。
場内にはほかに馬、牛、羊、豚の小屋があり、
東西には死んだ馬、牛、羊、豚の骨を捨てる大きな穴があった。
2.内部の仕事の状況
この飛行場に作られた地下室は
細菌実験を行う場所であった。
地上に造られた小屋の中に鼠、
ガチョウ、ハトを入れた檻が多数あり、
また場内で沢山の馬、牛、羊、豚を飼っていた。
だが日本人は自分で飼っている豚の肉は食べず、
すべて外の農民から豚肉を買って食べていた。
目撃によれば、解放後焼け落ちた家屋のそばに
鼠、ハタリス、雀を入れた鉄の檻があり、
地下室には沢山の割れたガラス瓶が残され、
中には黄色や白の粉薬が入っていた。
このような状況から見て、
日本人はここでさかんに
細菌実験をおこなっていたとおもわれる。
3.付近住民への被害
1943年の春、富本村(注:安達のすぐそば)で
伝染病が流行したことがある。
当時、全村の戸数は100あまりで、
1回の伝染病で70人あまりが死亡した。
● 証言 倉島壽亀 1911年生まれ 731部隊で石井四郎の専属運転手
(西野留美子論文 1994.11.18週間金曜日)
・・・・たびたび飛行機で安達実験場に行ったよ。
実験に使う「マルタ」を飛行機やトラックで運んだこともあった。
安達で細菌の投下実験をするときは、
逃げないように何メ-トル間隔かで
「マルタ」を杭に縛り付けて立たせ、
その頭上から細菌ネズミが入っている
細菌弾を落下したわけだ。
飛行機には操縦していたわしの他に、
整備士、観測士、通信士が乗っており、
連携して作業にあたった。
例えば「高度1000メ-トル」と言うと、スイッチを押す。
そうすると飛行機の胴腹から爆弾が落ちるわけだ。
ヒュッヒュッヒュって落ちていく。
たいてい1個の爆弾に25匹から30匹の
細菌ネズミが入っておって、
それを4,5個落とした。
早くて4~5日おきに、1週間、10日と
間を開けてやったこともある。
通常の実験で使ったのは、3人か5人位のマルタだ。
高度によって落下範囲はどのくらいで、
どれだけのネズミが落下後も生存し、
どの位置に縛られていたマルタに
どの程度の感染があるか、
そういうことを調べたわけだ。
実験に使ったマルタは、
必ずしも平房に送り返して調べたわけじゃない。
安達実験場にも研究室があってね。
そこで感染後の経過を調べたり解剖したこともあったな。
爆弾による傷口が何ミリかに始まって、
その症状を内臓の変化に至るまで、
4日から1週間かけて丹念に調べる。
解剖は生きているのを割ってね。・・・・
尚、野外実験場はここ以外にも、
城子溝、陶頼昭にもあったと言われています。