沖縄人の証言

沖縄人の証言を数名書きます。

●玉那覇春子さん

 ・・・・やがて、戦争が激しくなって、

 兵隊さんたちがやってきて、

 「ここは友軍が使うから、

 あんたたちは出て行きなさい」というんです。・・・・

 仕方ないから母はモッコをかついで、

 片方には食料、片方には衣類なんかを詰めて、

 妹の手を引いて、

 私は母の着物を後ろからつかまえて、

 そうやって夜の道をあてもないのに、

 ただ西の方、今のひめゆりの塔の附近ですね。

 そこへ向って歩いていったんです。

 道なんかありませんから、

 手探りで歩くようなもんです。・・・・

 歩くのは夜だけです。・・・・

 もう食べるものもないんです。

 どこへ行っても、壕の中は兵隊が一杯で、

 銃剣を持った兵隊が入口に立っていて、

 避難民が来ると追っ払うんです。

 「自分達はこれまで軍に協力してきて、

 どうしようもなくて避難してきているだから、

 せめて子ども達だけでも入れて下さい」と

 お願いするんですが、「子どもはよけい邪魔だ!

 泣き声をあげたら絞め殺されるぞ」「と脅かされて、

 目にかたきにして追い出されるんです。・・・・

 高嶺村の瓦家がありました。

 中に何百人という避難民が詰まっているので、

 私たちは軒下にいました。

 ある日、大きな爆弾に直撃されて

 家がいっぺんに吹き飛ばされてしまいました。

 中にいたあれだけの人がどこへ吹っ飛んだのか、

 屋敷はからっぽになっているんです。

 母は頭から足まで血だらけでした。

 母に抱かれていた妹は

 両足をやられていてもう立てませんでした。

 私はこの右腕とお腹の所に鉄の破片がすき刺さって、

 そこらじゅう血の海でした。・・・・

 

●山城文子さん

 ・・・・いちばん印象に残っているのは、

 あっちにもこっちにも死体がごろごろしていることでした。

 道路に死体が折り重なっていて、

 だれも片付けようとしないのです。

 あんまり邪魔になると、道端にどけて、

 それが石垣のように積んであるわけです。

 お婆さんとか、子どもとか、

 赤ちゃんをおぶったお母さんとか、

 いろんな死体がありました。

 みんな風船みたいにふくれて、

 蝿がたかってウジがわいていました。

 そういう死体をピョンピョン飛び越して

 何日も何日も歩きとおしました。・・・・

 山の麓の部落で、民家に何十人と潜んでいましたが、

 突然夜中に爆撃されて吹き飛ばされて、

 体中血だらけで転がりまわる人、

 肉も骨もバラバラになって

 男か女かの区別も分からない死体、・・・・

 一面血の海で、ほとんど地獄のありさまでした。・・・・

 破片が私の両腕を貫通して

 ブクブク血が吹き出してきました。・・・・

 傷口からはウジがわいてきました。

 ウジが動き回るので、

 それが痛くて指でつまみ取っていました。

 

●玉寄孝男さん

 ・・・・(6月に入って)敗残兵同様の友軍が

 なだれうって村内に後退してきた。

 友軍部隊は洞窟に避難している住民を追い出して占領した。・・・

 村民は散り散りになって統制を失い、

 艦砲と照明弾におびえながら避難場所を探した。・・・・

 糸数のアブチラガマ(洞窟名)で何ケ月過ごしたのか、

 日時の感覚はまったくない。

 父は負傷して歩ける状態ではなかった。

 母も栄養失調で横たわっているのが精一杯だった。・・・・

 ある日子どもがひもじさの為に激しく泣き出した。

 「敵に見つかるから黙らせろ!自分が黙らせてやる!」と

 兵隊が殺そうとしたが、 お祖母さんが抵抗して、

 「絞め殺されるくらいなら弾に当たって死んだ方がましだ」と言って、

 孫を抱いて洞窟から飛び出していった。

 地上の米軍にその場で保護された。

 それ以降、避難民の中から

 こっそりと洞窟から出て行く者が増えたが、

 脱走兵はスパイとみなして射殺するという

 厳命が出ていたから、命がけの脱出であった。・・・・

 さらに何ケ月が過ぎたか分からない。

 立って歩けるのは自分だけだった。

 水を飲ませることしかなかった。

 死亡順だけはよく覚えている。

 最初に父が死亡、次に母、長女、次女、と

 上から順に飢え死にしていった。

 やがて自分も動けなくなり、

 すぐ上の姉と、父母姉妹の死体と

 並んで意識不明の状態で横たわっていた。

 そこを米軍に助けられた。