華中占領地区の阿片政策
1938年3月、南京に日本の傀儡政権として
「中華民国維新政府」が出来ました。
維新政府設立と同時に日本軍の特務部は解散となり、
興亜院華中連絡部が発足しました。
維新政府と興亜院の指導で8つの大きな阿片商を集めて
「宏済善堂」という阿片販売商社が作られ、
表面上の責任者は中国人がなりましたが実質の責任者として
里見甫(中国名 李見夫、利鳴)が就任しました。
その後、傀儡政権は実権がなく手を出せないため、
阿片販売の一切は里見甫が率いる
宏済善堂の思うがままになりました。
里見は陸軍の極秘の指令で動いていたため、
現地の日本側機関も手を出せず、
東京の軍中央との打合せで内密に全てが動いていきました。
●上海におけるアヘンの状況
H・Fギル(イギリス人・上海国際共同租界警察局)
東京裁判証言
◎日本軍の占領以前に、
上海地区で公然とアヘンの売買はまったくありませんでした
◎1938年10月頃、上海西部に12ケ所のアヘン吸引所を作る計画がでました。
そこに20名のアヘン販売者を置くこととなりました。
◎アヘンは上海にはほとんど日本の船によって輸送されました。
積み下ろしも日本側の埠頭でした。
●南京についての報告書 M・Sベ-ツ
(アメリカ人・金陵大学歴史学教授)
◎麻薬についての商売は公益事業とされたのであります。・・・・
アヘンが公の店、すなわち政府の店で売られるようになり、
またアヘン窟の広告が政府の新聞に出てくるようになりました。
◎1938年10月には営業の出来るアヘン窟が175あり、アヘンを販売する所は30ありました。
上記のベーツ報告書は1939年11月25日
UP電で世界に知られる事となりました。
日本の領事館でも問題になりました。
●上海 三浦義秋総領事から野村吉三郎外務大臣への電報
1939年11月27日(原文カナ)
25日、金陵大学教授ベイツは
広東に於ける麻薬取り締まり状況に関する
調査報告を発表せるが
「ユ-ピ-」はその要点を電報し、
同日の「イブニング・ポスト」及び
26日の「チャイナ・プレス」はほとんど全文を掲載せり
◎要旨左の通り
南京に於いて免許せられた
阿片販売人、吸引所、旅館多数ある外、
多数の闇取引行なわれ居り
少なくとも市民の1/3は中毒者なり
阿片は主として満州国より、
次いで「イラン」より日本商人の手を経て輸入せられ・・・・
維新政府行政院の阿片収入は毎年300万元に上り、
同政府の主たる財源となれ居り。
日支双方(注:日本政府と南京傀儡政府)とも現行の阿片販売制度は
政府維持の為欠くべからざるものと称し、
憲兵特務機関も利益を分割し居れり
政府官吏及び警察官にして中毒し居るもの多数ある由なり。
尚「ヘロイン」吸引も増加し
毎日2~30の中毒者の死体発見せらる・・・・
(チャイナ・プレス社説には)現在の事態は
単に無責任なる日本人の所作為と証するを得ず
日本政府及び国民全部が全責任をおうべきものなり
過去50年間日本の征服する所必ず麻薬を伴えり・・・・