関東軍防疫給水部
トラブルがあった為、背陰河の施設は
いったん閉鎖されましたが、
1936年(昭和11年)8月に
関東軍の在満州兵備の一環として、
関東軍参謀長板垣征四郎中将の要望で、
天皇の名により正式に「関東軍防疫部」」として再編成されました。
同時に100部隊も増強されました。
そして中佐に昇進していた
石井四郎が部隊長に任命されました。
●在満兵備充実に対する意見 「陸満密大日記から」
1936年4月23日、関東軍参謀長板垣征四郎から
陸軍次官梅津美次郎への要望書
第23、関東軍防疫部の新設増強
予定計画の如く昭和11年度に於て
急性伝染病の防疫対策実施及流行する
不明疾患其他特種の調査研究並びに細菌戦争準備の為
関東軍防疫給水部を新設す
又在満部隊の増加に伴い昭和13年度以降其一部を拡充す
関東軍防疫部の駐屯地はハルビン付近とす
この件に関して天皇は上奏文を受けています。
●陸軍省軍事課「予算成立に伴う兵備改善上聞の件」
昭和11年密大日記より
防疫に関する部隊
人、馬の防疫に関する部隊各1個を新設す
注:人とは731部隊、馬とは100部隊のこと
そして天皇の命令「軍令陸甲第7号」によって
関東軍防疫部は正式発足になりました。
関東軍では防疫部で働く人員の確保に関して
軍医学校に依頼しています。
●関東軍防疫部傭人補充に関する件 昭和11年8月7日
関東軍板垣参謀長から梅津陸軍次官へ 陸満密綴より
軍令陸甲第7号に基き新たに編成せし
関東軍防疫部の傭人は特種の技術を要する為
現地に於いて雇傭困難なるを以て
陸軍軍医学校より左記の通補充方至急詮議相成度
追て本件に関しては陸軍軍医学校長とは協議済みに付申添す
左記1. 傭人 50名 8月中に補充せられ度
2. 傭人 38名 12月迄に補充せられ度
1982年に国が公表した部隊の記録によると、
「12月5日ハルビンで第2編成改正完結」となっているので、
軍令陸甲7号によって命じられた編成、
つまり臨時の東郷部隊から正式な第731部隊になることが
12月5日に完了した事を意味していると思われます。
●満洲防疫機関設立 陸軍軍医学校50年史より
防疫研究の基礎進むに際し、
防疫の実地応用に関し
石井軍医正は万難を排し挺身満洲に赴き、
防疫機関の設立に関して尽瘁せり。
而して該研究の実績挙がるや、
内地と不可分の関係に在る在満各部隊の防疫上
皇軍作戦の要求を満たす必要上、
昭和11年遂に防疫機関の設立を見るに至れり。
同機関は内地防疫研究室と相呼応して
皇軍防疫の中枢となるは勿論、
防疫に関し駐屯地作戦上
重要なる使命を達せん事に邁進しつつあり
この防疫機関が通称第731部隊といわれるものです。
石井は第731部隊を中心にして中国から東南アジアにかけて
最終的には20以上の同じような部隊や支部を作りました。
全ての部隊や支部は石井の支配下でしたから、
日本の細菌戦の総元締めは
やはり石井四郎という事になります。
今度の場所は平房でハルビンから南へ24キロの所です。
1938年6月に平房の広大な敷地を特別軍事地域に設定し、
村の住民を強制的に立ち退かせた
8キロ四方の広大な土地に、巨大な建物が次々と作られました。
建築は1938年から39年にかけて行われたと言われます。
◎1700戸の建物が接収され、
600人以上が家を失ったといわれます
◎建物の中心はロ号棟と呼ばれる
約400メ-トル四方の三階建ての巨大なものでした
壮大な軍事基地は建物だけでも76棟あり、
飛行場、鉄道、学校、神社、農園、プール等の娯楽施設まであり、
死体を焼く焼却炉は3つありました。
関東軍はここを「特別軍事地域」として
特別許可なしには日本人でさえも立入禁止とし、
空域の30キロの境界線に入った
民間機は警告なしに砲撃され、
平房を通過する列車はカ-テンで
窓を遮断する事を義務付けられました。
警備は厳重をきわめ、
警察、軍隊、憲兵隊が担当していました。
部隊建設の工事は短期間だった事もあって、
中国人労働者は虐待に近い強制労働を強いられ、
何千人もの人が死亡したそうです。
いわゆる731部隊での犠牲者統計には
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