インドネシア占領と大量動員
インドネシアは非常に広大な面積です。
ジャワ島を中心にスマトラ、ボルネオ、セレベス、
チモ-ルその他多くの島々と民族で成り立っています。
そのほとんどがオランダ領で
石油、ボ-キサイト、ニッケル、マンガン等の産地でした。
日本はこれらの資源を「重要国防資源」として
獲得するための一環としてインドネシアを占領したのです。
1941年(昭和16年)11月18日、
岩国にある海軍航空隊で、
寺内寿一陸軍大臣と山本五十六海軍大臣、
その他両軍の作戦関係司令官や幕僚が参加して、
南方作戦に関する陸海軍協定が交わされ、
協定は「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」
(昭和16年11月26日決定)として同日陸軍大学校にて調印されました。
まだ開戦前の事です。
1941年12月に攻撃を開始した日本軍は
次々とインドネシアの各島々を占領していきました。
オランダ軍は1942年3月4日、
バタビア(ジャカルタ)から撤退し、
日本軍は協定によって陸軍がジャワとスマトラ、
海軍がボルネオと東インドネシア地域の占領地統治を始めました。
第16軍が3月1日に55,000でジャワ島に上陸を開始し、
軍政が3月7日から始まりました。
●軍政の簡単な分担
・ スマトラは陸軍第25軍
・ ジャワは陸軍第16軍
・ その他の島は海軍の統治
・ 軍政の長官は軍司令官か艦隊司令長官がなり、
全ての命令を出す権限を持っていました。
各地の占領地には司令部があり、
その中に軍政部(後に軍政監部)が置かれました。
軍政監には軍・艦隊の参謀長がなりました。
1942年12月8日、
バタビアはジャカルタと改名されました。
日本軍は侵攻作戦の途中で放送を通じて
「日本はオランダの支配からインドネシア民族を
解放するために戦う」と宣伝し、
オランダ時代には禁止されていた
民族歌(インドネシアラヤ)を流し
民族意識を高揚させました。
また民族旗(現在の国旗)も沢山準備しました。
そのためオランダの植民地だったインドネシアの人々は、
最初は日本を解放者として歓迎、信じました。
日本に期待したインドネシアの人々は
すぐにでも独立できるものと錯覚し、
新政府の閣僚名簿まで作成して発表した新聞もありました。
●チャハヤ・ティム-ル紙 1942年3月13日
首相 アビクスノ・チョクロスヨソ
副首相 スカルノ
外務大臣 スジョノ
しかし日本軍は占領を完了すると次々と布告を出し、
逆に全ての政党を解散させ、民族旗や民族歌を禁止し、
日の丸や君が代を強制したため
住民からの信頼は失われていきました。
●布告第1号 1942年3月7日 原文カナ
第1条
大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の
福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し
現地住民と共に共存共栄を確保せんことを期し、
差し当たり東印度の治安を確立し
民衆をして速やかに安住楽業せしめんが為に
東印度占領地域内に軍政を施行す
第2条
大日本軍司令官は総督の職権を行使す
第3条
占領地に於ける在来の行政諸機関、其職域権限
及び諸法令の規定は軍政施行のため特に障害たらざる限り、
差し当たり引き続き有効とす
第4条
官民は大日本軍及び大日本官憲の命令を遵守すべし
黄色線のところをみると、
布告第1号ではまだ住民を尊重しているように見えますが、
その後は矢継ぎ早に厳しい布告が出されるようになります。
●布告第2号 1942年3月8日
結社・集会の禁止
●布告第3号及び布告第4号 1942年3月20日
政治的な言論・言語・言動示唆・宣伝活動の禁止
祝日等には日本国旗のみを掲揚する
●布告第16号 1942年5月25日
言論・出版機関の自由な活動の禁止
1943年5月の御前会議で
ジャワ・スマトラ・セレベス・マライ・ボルネオは
帝国領土にする事が決定されました。
結局は独立させる気はなかったのです。
スマトラから石油が供給され、
ジャワからは米が日本に供給されるようになりました。
●米の供給
米を日本に供給するためには、
耕作面積の拡大が絶対命令でした。
その為にジャワの森林が15,000ヘクタ-ルも
伐採されたといわれています。
それらの工事に多くの労務者が連行されました。
1943年から米の強制供出が徹底され、
30%を日本軍政監部に供出し、残りの30%は備蓄、
残った米がジャワの人々の生活に回されました。
しかしこれはあくまでも日本軍が発表した数字で、
実際には大部分が軍に取られたという証言もあります。
このように日本軍は民衆の活動を厳しく制限した上で、
戦争協力の為に最大限に動員する政策をとりました。
●三亜(三A)運動
占領直後最初の大衆運動で、三亜運動又は三A運動と呼ばれました。
三亜とは アジアの光日本!
アジアの保護者日本!
アジアの指導者日本!
この運動はサムスディンというインドネシア人を
表面的に立てていましたが、
推進母体は日本陸軍の宣伝部でした。
☆宣伝部に所属した日本の文化人たち
大宅壮一、阿部知二、横山隆一、
武田麟太郎、松井翠声、北原武夫・・・・
☆大宅壮一氏は、大邸宅を接収して
高級慰安所を2ケ所経営していたそうです。
白馬会-オランダ系女性を置いた
黒馬会-インドネシア系女性を置いた
この運動では、凡ての住民に毎朝、
皇居の方向に向かって身体を90度曲げて最敬礼し、
天皇に敬意を表す事が義務付けられました。
●プ-トラ(住民総力結集運動)
三亜運動は露骨に日本中心過ぎたため
住民の共感をあまり得られませんでした。
そのため次にインドネシア人の民族主義者を
全面に出して大衆運動を組織する事にしました。
1943年3月9日、
ジャワ占領1周年記念日にプ-トラは組織されました。
日本軍に協力させられた民族主義者は
通称四葉のクロ-バ-と言われました。
メンバ-はスカルノ、デワントロ、ハッタ、マンス-ルの4人で、
プ-トラの会長にはスカルノが、
副会長に他の3人が就任しました。
日本軍は民族主義者をうまく利用しようとし、
民族主義者は将来の独立のために日本を利用しようとし、
うまく行く筈でしたが結局は成功しませんでした。
●ジャワ奉公会
今度は日本人、混血民族、華僑、
その他全住民を対象にした組織が出来ました。
日本の大政翼賛会、満州の協和会、
中国の新民会を真似して作った組織です。
軍政監が総裁に、スカルノが中央本部長に就任し、
日本からは大政翼賛会、国防婦人会、
新民会等の指導者が職員に任命されました。
☆ジャワ奉公会の規約
1 軍政奉仕の率先実施
2 万民親和による軍政奉仕の指導
3 防衛強化
4 戦時生活態度強化
5 人民救護補導
6 他
日本軍はジャワ奉公会を中心に
「隣組」「婦人会」「青年道場」「青年団」「警防団」等を
組織して大量動員を行ないました。
その後、1943年10月には兵補(後述)、
さらにより軍事的なペタ(ジャワ防衛義勇軍)が作られました。
このペタは純然たる軍事組織で、
終戦までに38,000人以上の人数になったといわれています。
これらの組織の中でペタのような軍事的組織が
戦後すぐのインドネシア独立の中心になったため、
日本人の中にはインドネシア独立は
日本のおかげだと主張する人がいますが、
単にたまたまそうなっただけであって、
インドネシアの人々が日本に支配されながらも
独立のチャンスを狙っていたとするのが妥当だと思います。
●イディン・ワンサ・ウイジャヤの証言 1986年3月12日
・・・・多くの青年がセイネンダン、
ヘイホそしてケイボウダンなどに入りましたが、
そのことは私たちが親日だったということを
意味しないと確信します。
私たちはうわべだけ親日だったのです。・・・・
ですから、日本に何か功績があるとすれば、
彼らを軍隊式に鍛えただけです。
大量動員ではさらに豊富な労働力を
労務者(ロ-ムシャ)として強制労働に狩り立てたり、
軍隊の補助として兵補にしました。