地域別・ラバウル、ビルマ
「ラバウル」
南洋のニュ-ブリテン島のラバウルは
日本軍の南東方面前線基地があり、
今でも日本人に馴染みのある地名です。
10万人以上の日本軍が占領していたため、
陸海軍合わせて30軒近くの
軍慰安所があったとされています。
◎陸軍
市内 3ケ所 10軒以上
暁部隊用
市北部 2ケ所 カバカンダ
カバイラ(修道院だった)
郊外 ココボ
◎海軍
市内 数軒 将校用、一般兵士用
ブナカナウ
● 証言
松田才二氏 第8方面軍第6野戦憲兵隊少佐
慰安所と女たちを連れてきたのは
陸軍の暁部隊です。
暁部隊は正式には第4船舶輸送司令部というので、
強力な輸送力を持っていました。
坂本中将が司令官をしていました。
支那事変・満州事変以来の
日本軍相手の慰安所の親方と
暁部隊が話し合って
ラバウルに女たちを連れてきたのです。
慰安所の管理は暁部隊がしていました。
警備・取り締まりは憲兵隊がしていました。・・・・
一番大きい慰安所は平屋建ての長い建物で、
朝鮮の女たちが
200人から300人入れられていました。
日本から連れてこられた女たちは、
別の8棟ほどの2階建ての慰安所にいました。
それぞれ20人ずつぐらい
詰め込まれていたでしょうか。・・・・
女たちに対して暁部隊の軍医による
性病の検査が毎週ありました。・・・・
検査の結果90%の女たちが
性病を持っていることが分かりました。・・・・
女たちの1/3は病気で臥せって、
そしてまた多くが死んでいきました。
食事する時間もないほどです。
兵隊たちの姿は極限状態の中で
恥も外聞もない浅ましいものでしたよ。
中には1日80人から90人もの
相手をしていた人もいました。・・・・
売上げのほんの一部を
彼女たちが受け取っていましたが、
それも軍票でした。・・・・
一般の兵隊と下士官は
休みのある日の昼に行くのですが、
夜も自由に外出できる特権階級の将校が
最も慰安所を利用しましたね。
これが大問題だと思いました。
その上将校たちは時には女を妊娠させた上に
堕ろせと言ってきたりするのです。
「・・・・子どもを始末してくれ。
自分はこれから陸軍大学を
受験しなければならない身だから、
子どもができたら立身出世に差し支える」と言うんです。
こんなのが陸軍の上級幹部になって
立身出世して行くのかと思うと
私は激しい怒りを感じましたね。
「ビルマ」
ビルマの慰安所に関する資料は
比較的少ないのですが、
関東学院大学の林博史氏が
イギリスの「大英帝国戦争博物館」で
発見した資料から見てみます。
● 「駐屯地慰安所規定」 昭和18年5月26日
マンダレ-駐屯地司令官(原文カナ)
注:マンダレ-駐屯地とは、
第15軍所属の野戦高射砲第51大隊
(通称第3629部隊)の駐屯地です。
別紙第11号という資料には軍が指定したり、
准指定した食堂や慰安所の一覧があります。
その中から慰安所を見てみます。
◎軍指定准指定食堂慰安所
指定の種類 | 楼名 | 国籍 | 定休日 | 摘要 |
軍指定慰安所 同 同 同 同 軍准指定慰安所 同 同 同 | 梅乃家 万来家 東亜倶楽部 朝日倶楽部 菊園 楽天地 ビルマ館 喜楽荘 新緬館 | 内地人 広東人 半島人 同 同 ビルマ人 同 同 同 | 8日、23日 11日 26日 13日 18日 5日 20日 9日 24日 15日 30日 13日 28日 1日 16日 8日 23日 | 将校慰安所
ビルマ兵補専用 |
注:1. 1943年に形だけ独立したビルマは、
実質的には日本の占領下にありました。
軍に協力して日本の商社が進出していたた め、
慰安所を商社員まで利用したのです。
その時の商社は、三井物産、三菱商事、
日本綿花(日綿実業)、安宅商会、 三興、東綿、
江商、千田商会、鐘淵商事、丸栄、大丸で、
主たる取り扱いは綿花、木材、砂糖、塩、
石炭、マッチ、タバコ、繊維製品・・・・でした。
2. 半島人とは朝鮮人のこと
3. 兵補の仕組みはインドネシアで有名ですが、
ビルマにもあった事が分かります。
このビルマ人兵補の補償問題は
まだ話題 になっていませんので
今後の調査が期待されます。
ビルマでも強制売春や強姦が
連合軍のイギリスチ-ムによって調査されています。
その中のモ-クマイの事件を取り上げてみます。
● ビルマ東部・モ-クマイ(Mawkmai)の
集団レイプ事件
1945年8月4日、
虎雷部隊がモ-クマイで約75人の女性を集め、
町のいくつかの家に連行し
強姦を繰り返した事件です。
注:虎雷部隊は第56師団(松山祐三中将)
傘下の部隊と推測される
下記はイギリス軍の調査レポ-トに書かれている証言です。
1)N・H(農業 年齢不明)
1945年8月4日、虎雷部隊が
モークマイに来た時、
私はほかの村人と一緒に
ジャングルに逃げました。
その3日後、10人の日本兵が
ジャングルにやって来て私を捕まえ、
銃と銃剣で脅かして
モ-クマイのソ-ブア宮殿の
東の家に連れて行きました。
そこで私は28日間監禁され、
毎晩、剣と銃で脅迫されて、
一晩に少なくとも1回は強姦されました。
2)ソ-・サム・トゥム(職業不明 30歳)
日本軍の虎雷部隊が
モ-クマイを1945年8月2日から
降伏まで占領しました。
その間、組織的な掠奪と殺人が遂行されました。
彼らが来た時、健康な者は
みな安全のためにジャングルに逃げました。
そして逃げた人たちが村に帰ってみると、
村を離れられなかった人たちは
みんな殺されていました。
この時に30人の村民が殺されたと聞いています。・・・・
私は虎雷部隊の占領中、
モ-クマイから36マイル離れた
モンズイットのジャングルに隠れていました。
私の使用人と召使が毎日、
モ-クマイからニュ-スを知らせてくれました。
私がモ-クマイから戻ったとき、
食料や衣類はみな虎雷部隊によって
略奪されていました。
そして75人の少女や女性たちが
虎雷部隊によって強姦されたと知らされました。
その多くは結婚しており、
日本兵に強姦されたことを
証言するのが恥ずかしいので、
証言するのはほんの一部だけでしょう。
3)N・K(靴工 18歳)
売春婦になるよう言われたが私は拒否しました。
すると銃で脅かされてモ-クマイの
キュンカン修道院に連れて行かれ、
そこで8日間監禁されました。
その間、銃と銃剣で脅かされて
日本兵に3回強姦されました。
ビルマでは約3年半の占領で日本兵が
3,000人以上の混血児を残していると言われます。
日本に独立を認められたビルマでは
1942年7月、独立義勇軍が日本軍によって
ビルマ防衛軍に改編させられましたが、
日本軍を真似して将校用慰安所を作っています。
作った理由は・・・・
1. 兵士が健康でよく戦うことができ、
性病を予防するため
2. 敵がセックスを餌にスパイ活動しても
断ることを可能にするため
3. 休暇のとき、よりリラックスできるため、
また人間には当然ある性欲を処理するため
ビルマ軍の慰安所は1ケ所だけで、
早々に閉鎖してしまいました。
ビルマでは性に関する考え方、
或いは女性観が日本人と
違っていたせいかと思われます。
また独立運動家たちが
潔癖だったということもあります。
ビルマ軍初代将軍のアウンサンの著書を見てみます。
人気のス-チ-さんの父親です。
● 東京滞在が2~3日過ぎたころ、
我々は地方のホテルに連れて行かれた。
招待者は鈴木大佐だった。
(注:鈴木大佐は南方で活躍した
日本軍の秘密機関・南機関の機関長)
鈴木はそこで我々に、女性はどうか?と聞いてきた。
我々は当惑し「ノ-」と答えた。
鈴木は私が覚えている限りこのように言った。
「恥ずかしい事ではない。
風呂に入るようなものだよ。
ここには女の街がある。」
われわれは彼に感謝したが、
このようなやり方での娯楽を辞退した。
私は、彼らが何よりも我々を
堕落させようとしているのではないかと
自問した・・・・
日本軍に協力していたビルマでも
多くの強姦事件が起きたことは先に書きましたが、
ビルマ独立義勇軍の将校が抗議すると、
反対に笑い飛ばし、
「日本で軍事訓練をした時に、
女性を提供してもてなしたのだから、
そのお返しに、今度は君たちの番だ。
気前の良さを見せてくれたまえ・・・・」と
答えたといいます。
注:以前接待したのだから、
強姦ぐらい日本軍に対するお礼だと思え・・・・
ということです。
また、烈第31師団10353部隊乗馬小隊の
教育に関する書類綴りには
「・・・・小部隊の長にして
何等部下の労苦に酬ゆべきものなければ、
ある程度は娯楽的の意味にて止むを得ずと為し、
黙認的態度に出づるもの・・・・」 と、
強姦を報酬と考えて黙認していた
小部隊隊長がいたことが書かれています。