地域別・マレ-シア、シンガポ-ル、インドネシア

「マレ-シア」

1992年10月、

カトマンズで「日本の戦争犯罪国際調査委員会」が開かれ、

そこに出席したマレ-シア与党

「マレ-国民組織」のムスタファ・ヤ-コブは、

帰国後新聞などを通じて情報提供を呼びかけました。

その結果3,500人から回答が寄せられ、

その多くは日本軍による虐殺、

虐待や強制連行だったといわれています。

その中から慰安婦にさせられたと

5人の女性が訴え出ました。

同じころやはり与党の「マレ-シア華人協会」も

調査を開始し、

3人が名乗り出、

12人の存在が明らかになりました。

しかしマレ-シアの日本大使館や

マレ-シア政府からの圧力(?)で調査は中断されました。

ですからマレ-シアにおいては調査が進んでいないのですが、

 

訴えた女性からの手紙を入手した

早稲田大学の中原道子教授の聞き取り調査から

2人の証言を書きます。

 

● Pさん 当時15歳 スランゴ-ル州のスルダンに住んでいた。

 1942年4月、昼食の支度中に

 押し入った日本兵によってつかまった。

 家族は抵抗して怪我をした。

 弟はトラックで連行され2度と戻らなかった。

 Pさんは、台所で両親の目の前で次々と強姦された。

 まだ初潮前だった。

 それからトラックで連行され、

 クアラルンプ-ルのアンパンにあった

 大きな家に連れ込まれた。

 怪我と強姦で頭からも性器からも出血していた。

 そこで1ケ月ほど毎日何人もの兵隊に強姦された。

 その後ジャラン・プ-ドゥの

 タイ・セン・ホテルに移され毎日強姦された。

 さらにゴ・カンと言う、

 日本人は六軒屋と呼んでいた慰安所で

 日本の敗戦まで強姦され続けた。

 戦後村に帰ると「汚らしい裏切り者」と唾をかけられた。

 戦後は何も語らずにそっと養女と暮らしていたが、

 呼びかけで手紙を書いた。

 字を書けないために、

 始めて養女に打ち明けて代筆してもらった。

 

● ロザ・リン・ソウさん 

   1994年11月、

   マレ-シアで初めて実名で名乗り出た。

 離婚していて、2人の子どもがいた。

 1人はまだ乳飲み子だった。

 1943年、夜中に日本兵の手で引きずり出された。

 子どもはもぎ取られた。

 トラックでビルマ街の

 トンロック・ホテルに連行された。

 ホテルには日本軍慰安所の看板がかかっていた。

 その慰安所には30人ほどの

 女性が閉じ込められていた。

 女性たちは1日昼と夜の2回食事を与えられた。

 忙しい時は1日30人もの兵隊に強姦された。

 ベッドに横たわったまま、服を着る暇もなかった。

 妊娠した女性はいつの間にか

 姿が見えなくなるので、

 殺されるらしいという噂だった。

 ロザ・リンさんは妊娠したが

 必死に頼み込んで病院に行った。

 女の子を出産した後、

 慰安所には戻らずに終戦を迎えた。

 

マレ-半島で慰安所の開設、管理、募集を

担当したのは兵站部でした。

第25軍兵站に勤務していた「B」氏からの聞き取りです。

 

● B氏の証言

 1942年1月2日、マレ-半島の上陸地点

 シンゴラにいた兵站の将校以下3名から

 バンコク出張を命じられた。

 任務の一つは慰安婦募集だった。

 バンコクで日本企業の駐在員に頼んで

 23人の娼婦を集め、

 性病検査で合格した3人を連れて帰り、

 2月始めにハジャイとシンゴラに慰安所を開設した。

 3月31日にペラ州タイピンに入ると、

 先行していた兵站支部が

 将校用と兵士用の慰安所を開設していた。

 5月23日、クアラルンプ-ルに入った。

 「六軒屋(華僑の家6件)」と「つたのや」をはじめてとして

 16軒の慰安所を開設した。

 

「シンガポ-ル」

シンガポ-ルでは日本軍による華人虐殺が一段落した後、

  (大東亜共栄圏の泰緬鉄道・マレ-半島シンガポ-ルに

  詳しく書いてあります)

1942年3月5日の「昭南日報」に慰安婦募集の広告が出ました。

昭南日報は日本軍が現地新聞を接収して

1942年2月21日に刊行を始めた中国語の新聞で、

完全に日本軍の宣伝用新聞です。

●  広告

  各民族(各種)の接待婦数百名を募集する。

  年齢17歳から28歳ごろまでの者は皆応募してよい。

  採用された者は、

  毎月の報酬少なくとも150ドル(毎月休息1日)

  このほか応募の時に本人に3ドル、

  その紹介者には2ドルを与える。

  応募受付はビ-チ・ロ-ドのラッフルズ・ホテルに設ける。

  娼婦(暗業)の経験者も応募してよい。

   注:広告主は不明ですが、

     ラッスルズホテルは

     軍が管理する将校用のホテルで、

     しかも新聞が軍の宣伝用ですか ら

     軍直接の計画と見て良いとおもいます

 

シンガポ-ルの慰安所については、

パン・ミンイエン氏の

レポ-トが1993年に発表されました。

(Straits Times 1993.8.30)

そのレポ-トには下記の5ケ所に

慰安所があったと書かれています。

 ◎ブクム島  

  インドネシア人慰安婦がいて、

  汚れた身体で故郷に帰るよりは

  外国で死んだほうが良いと言っていた。

   注:ここはシンガポ-ル島から

     南方約5Kmにある島で、   

     海軍が使用していた可能性があります。

 ◎セント-サ島  

  現在は島全体がリゾ-トアイランドになっている。

 ◎ケーンヒル・ロード  

  現在ケーンヒルホテルが建っている一角に 

  有刺鉄線で囲まれた慰安所があった。 

  ここは多くが朝鮮人で、

  日本人のような服を着ていた。

 ◎タンジョン・カトン・ロ-ド

 ◎ブキャット・パソ-  

  現在の晋江会館が慰安所として使われていた。

 

「インドネシア」

インドネシアでも慰安所、強姦所・・・・等

色々なタイプの性暴力が報告されています。

他の例と同じで、

慰安婦だった女性がなかなか

名乗り出ないため長い間はっきりしませんでした。

1992年7月、地元日刊紙「スワラ・ムルデカ」が、

元慰安婦「トウミナ」さんの悲惨な経験を

発表したのが初めてです。

その後調査研究が進みました。

1995年8月にマルディエムさんが

日本の民間団体のフォ-ラムで初めて証言しました。

地元のインドネシア兵補協会

(現、ジョグジャカルタ法律扶助協会LBH)が

全国134支部を通じて

慰安婦被害者の登録作業をしていましたが、

1996年3月に終了し、

22,234人の登録を発表しました。

もう亡くなった人もいるでしょうし、

恥ずかしくて名乗り出ない人もいるでしょうから、

実際には数倍の女性が被害にあったかもしれません。

英国の都南アジア司令官の

BC級裁判の犯罪捜査ファイルから少し見てみます。

 

● 1943年7月に

 ジャワのカリジャティ飛行場近くに慰安所が開設され、  

 常時15人の少女が日本兵の相手をさせられ、  

 毎週性病検査を受けていたが、

 病気になると新しい少女と入れ替えた。

● ジャリのマランで1943年11月に

 17歳から30歳までの沢山のユ-ラシアン、

 メナド、ジャワの女性たちが家から連行され、  

 医師の検査を受けてから

 スプレンディッドホテル、

 プレイスホテルやサマ-ンウェグの

 ヨ-ロッパ人の家に設けられた慰安所に入れられた。

● 1944年1月25日、

 マゲラン近くの民間人抑留所から

 16歳から20歳までの少女6人と、

 既婚女性7人が連行され  

 マゲランの慰安所に入れられた。

 

最近発見された資料もあります。

吉見義明氏と内海愛子氏が

アメリカ公文書館や

オ-ストラリア戦争記念館で収集したものです。

 

その資料はオランダ軍情報機関・NEFIS

(本部、オ-ストラリアのブリスベン)が

作成した「NEFIS訊問報告」です。

その中から日本軍慰安婦に関する部分を少し転用します。

 

● NEFIS訊問報告 1944年10月29日

   業者に地元女性の選別を認める

   許可証を憲兵隊が発行していた例

 1943年に、ソロ(中ジャワ)で、

 徴募された多くの村娘たちが、

 日本軍将校用として、

 ルッシェホテルにいるのが目撃された。

 ソロのある華人は、

 村長たちAssistant Wedanasを通じて村々から

 少女達を選別することを保証する許可証を

 憲兵隊から交付されていたと述べた。

 少女たちはゾロで1日1ギルダ-の仕事だと言われて、

 誘われたが、彼女たちは一旦そこに行くと

 2度と帰ってこなかった。・・・・ 

  (情報源:1944年5月から8月の間に。

  ビアク島、ヌムフォル島、他で米軍により

  解放された20名のジャワ人で、

  全員兵補だった)

● NEFIS訊問報告 1944年12月31日

   日本軍が慰安所に直接関与していた例

 50名の日本人女性が日本海軍の軍人、

 軍属専用慰安婦として、

 スバラヤ(東ジャワ)から船で運ばれてきた。

 彼女たちはチュン橋付近の長い低層の建物に

 住まわされていたが、

 この建物は民間人が入るのを阻止し、

 女性たちが逃げるのを防ぐため、

 鉄条網で囲まれ、海軍の警備兵がいた。

  (情報源:ニビシから マレ-人、

  15歳男性、沈没した日本船から生還)

● NEFIS訊問報告  1945年5月5日 

    拉致された例            

 1944年11月、テルナタ島占領後間もなく、

 日本人は売春を目的とする若い女性たちの

 集積・配分センタ-を作った。

 2つの大きな売春宿が作られ、

 メナド人、ジャワ人、華人、

 ユ-ラシアンを含む様々な人種の女性たちが、

 ハルマヘラ、アンポンやその他の地域へ送られた。

 地元の若い女性は強制的に徴集された。

 独身の女性だけがふさわしいとされた。

 

川田文子氏はインドネシアにおける

慰安所の形態を次の6つに分類しています。

 1. 人口の過密なジャワ島から他の島々に

  連行された女性が監禁された慰安所

 2. 日本軍駐屯地近くに住む女性たちが

  軍人に拉致されるなどして作られた慰安所

 3. 営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に囲い、

  その将校官舎を慰安所として兼用した

 4. 日本の植民地であった朝鮮、台湾の

  女性が連行され監禁された慰安所

 5. オランダ人抑留所から

  若い女性が連行され監禁された慰安所

 6. インドネシア女性がフィリピン、ビルマ、

  シンガポ-ルなど他の国に連行され、

  監禁された慰安所

 

アンポンに配属された将校、坂部康正の記録では、

戦後インドネシアに残された

日本人混血児は、

30,000人と称せらると書かれています。

 

インドネシアでは珍しくヨ-ロッパ人女性が

慰安婦にされていますので、

次の項目で単独に書きます。