地域別・北朝鮮

1991年1月、平壌で開かれた

第1回日朝国交正常化会談で、

北朝鮮から強制連行などの人的被害の一部として

慰安婦問題が提起され、補償が要求されました。

1992年5月3日には、

平安南道に住んでいる李京生さんが、

1929年12歳の時に日本軍に連行され、

慶尚南道の軍需工場で

慰安婦生活を強いられたと、始めて名乗り出ました。

その年5月24日に

北朝鮮に「朝鮮占領被害調査委員会」が出来、

調査が始まりました。

 

そして1993年、

平壌で「日本の戦後処理に関する

ピョンヤン国際シンポジウム」が開かれました。

2000年の女性法廷に向けて、

朝鮮民主主義人民共和国の

従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会

まとめた報告書を中心に書きます。

 

● 今までに名乗り出た被害女性    

  生存者  218人

  公開の場で証言した人 36人

● 連行時の年齢        

  12歳~15歳  34人(未婚者)

  16歳~19歳  92人(既婚者6人)

  20歳~24歳  54人(既婚者7人)

  25歳~29歳    9人(未婚者1人)

  30歳以上     2人(既婚者)

  その他12人は死亡、記憶喪失により確認不能

● 連行年数 (1993時点での統計です)

  1929年~1940年  43人

  1941年~1945年  73人

● 連行方法    

 ☆居住地又は旅行中に拉致    96人             

 ☆良い働き口を斡旋すると言って 74人             

 ☆借金の変わりに業者に売られた             

 ☆女子挺身隊の名目で募集された。

● 運営       

 ☆軍の直営管理と民間業者管理と2種類あった。              

 ☆性病検査は1週間ないし10非に1度ほど行なわれた。                

 ☆治療しても治らない慰安婦は

  軍人が夜中にどこかへ連れて行った

● 慰安所の生活

 ☆連れて行かれたときは

  「新品は将校用」ということで、

  数日間将校専用にされた。

 ☆容貌の優れた女性は、全期間将校用にされた。       

 ☆拒否する女性には暴行が加えられた。           

  軍刀で首を切られたり、

  性器に銃を撃ち込まれ殺害されたケ-ス。           

  93人が残虐行為を目撃したり、

  自分も傷を残している。       

 ☆日本名或いは部屋の番号で呼ばれた。       

 ☆朝鮮語の使用や慰安婦同士の会話は禁止された。       

 ☆食事と便所以外は部屋から出ることは禁止され

  24時間歩哨の監視下にあった。         

  食事も部屋でとったケ-もある。       

 ☆コンド-ムを洗って何度も使用させられた。       

 ☆1日に20人から25人、

  日曜日には40人以上の相手をさせられた。       

 ☆妊娠した時は注射で強制的に流産させられ、

  1週間もたたない内に仕事を強要された。       

 ☆お金や軍票を手にしなかった女性がほとんど

  料金制度を知らなかった女性もいる。       

 ☆1日ごとに受け取った「入場券」を経営者に渡した。

  その枚数によって食事の内容が変わった。       

 ☆帰郷するときにお金を支払うという

  約束だったが受け取っていない

 

北朝鮮の慰安所に関しては

国交の問題もあり調査が遅れていました。

このところ咸鏡北道清津市で羅南にあった

日本軍部隊の慰安所の調査が進んできました。

北朝鮮労働日報の2001年3月11の

金徳鎬氏の論文を要約します。

 

「金徳鎬論文」

● 1998年に清津市青岩区域芳津洞で

 2ケ所の海軍専用慰安所が発見された。                  

   (1998年5月7日朝鮮労働党機関紙・労働新聞)

 慰安所の名前は「銀月楼」と「豊海楼」

● 1999年から2000年にかけて、

 羅南第19師団に関する調査が進んだ。

● 羅南第19師団は

 1916年5月に15,000人で羅南を占領した後、    

 1917年に99部屋の遊郭「フミモダ」を建設した。    

 しかし一般人も入る遊郭だったため

 1928年に「軍人慰安所」という名称で新たに開設した。    

 設立したのは、道知事(日本人)、

 羅南第19師団長、羅南憲兵隊長といわれている。

● 咸鏡北道清津市羅南区城豊谷道(当時は生駒町)に、  

 平屋の木造建物が30余棟で、

 建物は1号棟、2号棟と続いていた。  

 現在は4つの建物が残っている。  

 5つの食堂があった。

 慰安婦の数は約300人だった。

● その他第19師団が駐屯していた

 会寧、恵山、咸鏡にも慰安所があった。

 会寧には騎兵隊の第7489部隊の慰安所もあった。

 慰安所の名前は、

 一富士(将校用)、大吉(下士官、兵士用)等