安全区の場所と避難
前の方でも南京行政区の概略図を載せました。
その中心より少し上の斜線の部分が南京の拡大図です。
今回を地図を2つ掲載します。
最初の地図のギザギザな太線が南京城壁、
その内側が南京城内です。
もう一つの地図の中心あたり、
太い線で囲まれた変形の6角形をした地域、
ここが国際安全区(難民区)です。
難民区の広さは南京城内の約1/8位、
面積8.6平方キロメ-トルで、
東京の台東区より少さい面積です。
● 安全区に避難した人の人数
南京城区の市民、近郊から避難してきた
難民、武器や軍服をを捨てた兵士、
日本軍による強姦から逃れた女性・・・・
委員長のラ-ベによれば、
最大で25万人が避難してきたと言われます。
注:南京事件を否定する人は、
よくこのラ-ベの発言を間違って引用します。
「25万人しかいない南京で
30万人殺せるわけがない」と主張します。
しかしラ-ベは安全区に避難した人の
人数を言っているので、
南京の人口を言っているわけではありません。
日本軍が南京の外周陣地に突入し、
城内が危険になってきた12月8日、
安全区委員会は正式に成立と
非武装化をを宣言し、
市民にビラを配布して避難を呼びかけました。
ビラは「南京安全区国際委員会」の項目に
書いてある市民への呼びかけ文
「南京市民に告げる書」です。
その内容を信じた多くの市民が
難民区に避難しました。
そして約束を無視した日本軍から被害を受けたのです。
中国の南京防衛軍でも
市民に避難することを呼びかけました。
● F・ティルマン・ダ-ティン記者
ニュ-ヨ-ク・タイムス特電
12月8日、水曜日、南京発、
南京防衛軍の司令官唐生智は、
市が戦闘地域に入ったと宣言し、
すべての非戦闘員は国際管理下の
安全区に集結しなければならない、と布告した。
市内他地区での非戦闘員の移動は、
黄色の腕章に特別の印で示される
特別許可所有者を除いて、禁じられる。
中国としては、
日本軍が侵攻してきたときに
遮蔽物になりそうな建物があると困るので、
南京城壁の周囲1~2キロの建物を
全て自ら焼き払いました。
これは「清野作戦」と呼ばれました。
よく「南京での放火は中国軍がしたことで、
中国は日本軍のせいにしている」と言う人がいますが、
中国軍がしたのは清野作戦で、
日本軍がした放火とは別のことです。
しかしながらこの南京を守るための
清野作戦で多くの農民が家を失ったのは事実で、
この人たちが難民となり難民区に避難しました。
また侵攻してくる日本軍に追われて
家を失った人も難民区に入りました。
● 同上 ダ-ティン記者の特電から
中国軍による防衛線内(注:南京城の外側)の
焼却が続けられていた。
中山陵園の中国高官の宏壮な邸宅も
昨夕燃やされたところに含まれる。
南京は深い煙の層によって囲まれた。
昨日、中国軍が半径10マイル以内の町の
建物や障害物を焼き払い続けたからだ。
本記者は車で前線に行く途中、中山門外、
中山陵東南の谷全体が燃えているの見た。
中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、
一面煙る廃墟と化し、
事前に避難しなかった住民は、
その僅かばかりの哀れな持ち物を
背に南京に向かって路にあふれ、
ときおり立ち止まっては、
もといた家の方を悲しげに見やるのであった
● A・T・スティ-ル特派員
シカゴ・デイリ-・ニュ-ス紙外信部特電
南京 12月9日発
シカゴ・デイリ-・ニュ-ス編集注
以下の通信はデイリ-・ニュ-ス紙
特派員によって本日送られてきたものである。
彼は、包囲攻撃下にあって治安の悪化した
南京にいて、生命の危険を冒す
勇気ある数人の報道人の一人であり・・・・
諸々の兆候からすると、
中国軍は城壁の全周囲約1マイル以上にわたって、
そのもたらす代価や苦しみにもかかわらず、
一帯を清野にしようとしている。
昨晩、私は西門(漢中門)外の村を訪ねた。
村人は急いで持ち物を集め、
南京の「難民区」に行く用意をしていた。
村を焼き払うので夜中までに
出て行くようにと、軍隊が命じたのだという。
「難民区」にはすでに蟻塚のように
人々が殺到している。
今朝、西の丘陵に立ちのぼった茸状の煙は
最悪の事が起こったことを伝えた。
3日にわたってこの近郊地区の焼却が続いた・・・・
● 同上 スティ-ル特派員 外信部特電
南京12月10日発電
日本軍の城南諸門への猛攻と
日本軍機の町中くまなき爆弾投下とともに、
残留住民は「安全区」なら無事と考え、
ここに群れをなして殺到している。
そこではアメリカ人13人と
ドイツ人4人からなる国際委員会が、
さもなければ荒廃に帰するであろう
この首都の2平方マイルほどの
共同公国を運営している。
わずか1週間の期間に、
主に伝道者の教師と医師からなるこの委員会は、
ほとんど他に比するものもない人道主義の偉業、
何千という無辜の人々の生命を救うであろう
偉業を成し遂げた。
委員会を指揮しているのは
YMCA国際委員会書記の
ジョ-ジ・フィッチ(オハイオ州ウ-スタ-出身)で、
金陵大学教授のルイス・スマイス(シカゴ出身)が
書記に任じている。
13日に南京を占領した日本軍は
すぐに残虐な事件を起こし始めました。
安全区国際委員会は12月14日に
日本軍の司令官に要請書を出しています。
● 要請書
南京日本軍司令官殿
昨日(13日)の午後、
多数の中国兵が城北に追いつめられた時に
不測の事態が展開しました。
そのうち若干名は当事務所に来て、
人道の名において
命を助けてくれるようにと、
われわれに嘆願しました。
委員会の代表たちは貴下の
司令部を見つけようとしましたが、
漢中路の指揮官のところでさしとめられ、
それ以上は行くことができませんでした。
そこで、われわれはこれらの兵士たちを
全員武装解除し、
彼らを安全区内の建物に収容しました。
現在、彼らの望み通りに、
これらの人々を平穏な市民生活に戻してやることを
どうか許可されるようお願いします。
南京安全区国際委員会委員長
ジョン・H・D・ラ-ベ
[その他の避難所]
南京城内の国際安全区以外にも
外国人の手による避難所はいくつかありました。
● 棲霞山の避難所 J・G・マギ-牧師の視察報告
(注:棲霞山は南京東北20キロにある)
棲霞山セメント工場の敷地内のキャンプには、
ギュンタ-(Gunter)博士と
シンバ-グ(Sindberg)氏の管理のもとに、
現在1万人の難民がいる。
難民の数は現在も増えつつあり、
私がキャンプを見て回った時も、
新しい小屋が建てられているところだった。
ほとんどの小屋は稲藁で造られていたが、
中にはいくらか大きな筵の小屋もあった。
キャンプには、外国人のもとに
多数の指導者がいて運営していた。
難民を収容していた寺院のある僧は、
一時は2万人の難民がいたが、
現在は1千人ちょっとになったと話してくれた。
明らかに寺院の難民のいくらかが、
セメント工場のキャンプに移っている。
なぜなら、寺院の難民が減っているのに対して、
キャンプの人数の規模が増えているからである。