強姦の多発と慰安所

南京事件では大量虐殺が

あまりにも有名ですが、

その他に掠奪・強姦・放火・麻薬などの

問題も同時に重要であることは既に書きました。

前項で略奪のことを取り上げました。

 

次に「レイプ・オブ・ナンキン」として

世界的に有名な強姦について書きます。

強姦事件は虐殺と同時に行われるケ-スが多く、

単独に分けられるものではありません。

その為似たようなケ-スが

繰り返し出てくる場合もあります。

軍の中央でも強姦問題には頭を痛めていました。

徴発や殺害は戦争だからある程度仕方がないが、

強姦はやはり皇軍としては

みっともないと考えていたからです。

強姦をした兵士を

軍法会議にかけた記録があります。

強姦は親告罪ですから

基本的に被害者が訴える必要があります。

そのため強姦をした場合、

被害者は口封じのため殺害されたのです。

ですから軍法会議にかけられたのは、

よほど運が悪かった(?)兵隊なのでしょう。

 

◎中支那方面軍軍事法廷会議陣中日誌から

    第10軍(柳川部隊)の犯罪概要

 ☆被告(24才)は楓涇鎮に宿営中、

  昭和12年11月27日住呉浜方面に

  糧秣の徴発に赴きたる際、 

  同日午後2時頃同所田圃道を歩行中、 

  被告人の姿を認め逃避せんとする

  少女を目撃し脅迫を用いてこれを姦淫したり。

 ☆被告人(33才)は湖州に宿営中、

  昭和12年12月5日午後3時30分頃、 

  炊事用の包丁を物色せんと

  同市内某民家に立越したる際、 

  支那婦人(当33年)の在室せるを認め、

  俄に劣情を催し、同女を

  同家物置部屋に引き入れ

  暴力を用いてこれを姦淫したり。

 ☆被告人(32才)は湖州に宿営中、

  昭和12年12月12日朝、

  湖州城外に糧食の徴発に赴きたる際、 

  たまたま被告人の姿を認めて

  暴行を恐れ竹林中に潜みいたる支那婦人を目撃し、 

  これを付近農家の一室に連れ込み、

  同所において被告人の威勢に恐れ

  すでに抵抗不能に陥れる同女を姦淫し、 

  なお付近農家より50銭支払いしのみにて

  鶏十数羽を持ち去りたり。

 ☆被告人(29才)は湖州に宿営中、

  昭和12年12月21日午後1時頃、 

  同所の某民家に立越たる際、

  支那婦人(当25年)が自ら靴を脱し、 

  寝台上に上がりたるを目撃したるより

  俄に劣情を催し強いて同女を姦淫したり

 

日本軍の中に強姦事件が多発したことは

異常なことですが、

これについて掠奪の調査をした

早尾軍医の報告があります。

 

◎軍医官の戦場報告意見集から 

    早尾乕雄陸軍軍医中尉

    金沢医科大学教授

 強姦罪については人間の本能を

 赤裸々に表したる結果にして、

 あたかも飢えたるものは

 餓鬼のごときに等しく、

 性欲に対しても通じる言葉なり。

 人間は恐怖、疲労困憊のもとには

 性欲発揮することなし。

 これは睾丸の組織検査にも表れたり。

 戦闘休止し精神的に余裕を生じ

 休養の効果表れるとともに

 睾丸の組織は常態に復旧す。

 ここにさらに精神の緊張失わるるをもって、

 性欲勃然として起こるは当然なり。

 餓鬼とならざるをえず

 これ強姦の流行せし所以なり。

 これをあえてせざるはその人の

 修養のあつきを物語るものとす。

  注:教養が相当ある人以外が

    強姦をするのは当然だということです。  

    当時の軍医や大学教授・・・

    日本男性の平均的考え方なのでしょうか

 

同じ早尾軍医はその後国府台陸軍病院に勤務し、

「戦場における特殊現象と其対策」と言う

論文を書いています。

その中の「性欲と強姦」には次のように書かれています。

◎出征者に対して性欲を長く抑制せしめることは

 自然に支那婦人に対して暴行することとなろうと 

 兵站は気をきかせ中支にも早速に慰安所を開設した、 

 その主要なる目的は性の満足により

 将兵の気分を和らげ皇軍の威厳を

 傷ける強姦を防ぐのにあった。・・・・ 

 それでも地方的には強姦の数は相当にあり、 

 また前線にもこれを多く見る、 

 これは尚女の供給の不足してることによるは

 勿論のことだが、やはり留学生が

 西洋女に興味を持つと同様で

 支那というところに好奇心が湧くと共に 

 内地では到底許されぬことが

 敵の女だから自由になるという考えが

 非常に働いているために、 

 支那娘を見たら憑かれたように

 ひきつけられて行く、 

 したがって検挙された者こそ不幸なんで、

 陰にはどれほどあるか解らぬと思う・・・・ 

 勝利者なるが故に金銀財宝の掠奪は

 言うに及ばず、敵国婦女子の身体まで汚すとは

 誠に文明人のなすべき行為とは考えられない、 

 東洋の礼節の国を誇る国民として

 慙愧にたえたることである、 

 昔倭寇は上海に上陸し

 南京にいたるまでこのような暴挙に出た為に 

 非常に野蛮人として卑しめられ

 嫌われたというが、 

 今においても同じ事が繰り返さるるとは

 なんとした恥辱であろう・・・・ 

 日本軍人は何故にこのように

 性欲の上に理性が保てないかと 

 私は大陸上陸と共に直ちに痛感し

 戦場生活1ケ年を通じて始終痛感した、 

 しかし軍当局は敢えてこれを不思議とせず、

 更にこの方面に対する訓戒は耳にしたことがない、 

 しかも軍経営の慰安所をさかんに設けて

 軍人のために賎業婦を提供した・・・・ 

 軍当局は軍人の性欲は抑える事は

 不可能だとして支那婦人を強姦せぬ様にと

 慰安所を設けた、 

 しかし強姦は甚ださかんに行われて

 支那良民は日本軍を見れば必ずこれを恐れた・・・・ 

 このように陸軍軍人は性欲の奴隷の如くに

 戦場を荒らしているのであるから 

 強姦の頻発もまた止むを得ぬことと思われた、 

 宣撫班にも一方には大きな成果を挙げつつ、

 一方からこれを破壊するような

 破廉恥な行為が行われてる、 

 即ち強姦と金品の恐喝とである・・・・

 

あまりの強姦の多発に頭を痛めた

現地軍の司令部は早急に

慰安所の準備を始めています。

 

◎1937年12月11日 

  飯沼守上海派遣軍参謀長 日記

 ・・・慰安所の件方面軍より書類来り実施を取計ふ・・・

◎同年12月19日  同上日記

 ・・・迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す・・・

◎同年12月28日  

  上村利道上海派遣軍参謀副長 日記

 ・・・軍隊の非違愈々多きが如し。

 (参謀部)第二課をして各隊将校会報を

 招集し、参謀長より厳戒する如く

 手続きをなさしむ・・・

 南京慰安所の開設に就いて第二課案を審議す・・・

 

支那派遣軍の最後の総司令官だった

岡村寧次大将が戦後講演した内容にも

強姦の事が話されています。

 

◎1954年4月18日 偕行社での講演

 ・・・・軍司令官着任後

 まず某師団長を訪問したところ、

 同師団長は「私の師団の将兵は

 戦闘第一主義に徹し、勇剛絶倫なるも掠奪、

 強姦等の非行を軽視し、

 団結心強きも排他心も強い。

 南京事件は前師団長時代のことであるが

 相当暴行をしたことは確実である云々」と、

 公平率直に報告した。・・・・・

 当時各師団は数十名の慰安婦を同行していた

 兵站の重要なる一機関になっているが

 強姦予防のために上司も黙認という

 有様であったのである。

 日露戦争時代には慰安婦の同行は

 無かったが強姦も無かったのである。

 我が陸軍では、

 昭和7年春第一次上海事変の際、

 海軍に倣って、公然慰安婦を設けた

 が最初である。

 その当時極めて少数であったが、

 この慰安婦同行を始めてからは、

 全くこの犯罪が無くなったのを記憶している。

 然るに昭和12年の今日慰安婦を同行しても、

 なお多くの強姦する者を続出するのである。

  注:この講演の内容は従軍慰安婦が

    軍の関与であるとはっきり

    認めている内容です。  

     一部の人が主張しているように

    慰安所は民間業者がやった事で  

    軍とは関係ないということが

    ウソなのが分かります

 

このような状況で軍は積極的に

慰安所の整備に取り掛かりました。

慰安所に関しては「軍による性暴力」に

詳しく述べましたのでここでは簡単に書きました。

 

今回は中国の研究者が分類した

いくつかの型を紹介します。

 

「抗日戦争研究・1999年第二期」経 盛鴻論文から

1. 軍が所属部隊に配属する。又

 は、日本人の売春業者に開設させる。 

 日本人と朝鮮人慰安婦が多く、

 中国人は少なかった。 

 慰安所の数はあまり多くなかった

 ◎岡本健三の回想から

  もちろん、占領と同時に

  日本の慰安婦がはいってくる。

  まごまごしていると、

  部隊より早く着いてしまうのもある。

  南京の時には、

  うちの部隊がはいったその日に、

  もう店を開いていた。

  九州あたりの女が多かった。

  だんだん落ち着いてくると、

  大阪なり、東京なりから来るようになった・・・・

1. 各部隊が軍の指示に照らして設立した慰安所。 

 これが一番多かった。 

 この場合は日本軍に拉致されたり

 騙されたりした中国人女性が多かった。

 ◎宮本大尉 1937年12月16日 

      南京から友人に宛てた手紙から

  夜、兵站部の新設した慰安所へ行って

  “慰安を”受けよという命令を受けた

  慰安所は板で作られた臨時施設であり、

  下関の石炭埠頭とあまり離れてない。

  中に300名の慰安婦がおり、

  もちろん今回の戦利品であり、

  すなわち地元で徴集した女性である。

  私達がついた時、

  慰安婦たちも相当に疲れた様子で、

  裸で、火の周りに猫のように寝転んでいた。

  だれもお金を貰わない、

  私達を待っているだけである。

  慰安婦の逃走或いは反抗を

  防ぐためかわからないが、

  兵士たちはにぎり飯を一人一個ずつ配られ、

  やる時に慰安婦にやれ、

  これは慰安婦の一日の食べ物だといわれた。

  女性たちはかなり飢えていたようで、

  おにぎりを見ると、

  すぐに奪い取って食べ始めた。

  私達が彼女たちの体の上で

  何をするのか全然気にしない

  様子であった。・・・・

  用が終わって集合して帰ろうとした時に、

  また80人くらいの地元の女性が

  連行されてきて、衰弱した慰安婦と

  入れ替えにされた。・・・

1. ほかの名目で騙して強制連行した例

 洗濯、掃除、炊事、雑用・・・・で

 連行され、昼間は仕事、

 夜は慰安婦として働かせられた

  注:朝鮮半島から挺身隊名目

    連行された女性が多く含まれます

1. 日本軍は漢奸(日本軍に協力した中国人・・・

 どこの国にもいますが)を通じ

 「南京救済委員会」を作らせ、 

 慰安所を多く作った。 

 上海派遣軍参謀の大西は

 南京の名士喬鴻年に命じ、

 12月22日最初のこのタイプの慰安所が

 営業を始めた。 

 喬鴻年はその後も多くの慰安所を作った。 

 その後多くの中国人漢奸が真似をしました。

 ◎喬鴻年が人民慰安所を作るために

    「自治委員会」に出した申請書 1938年4月

  私は南京特務機関の委託を受け

  夫子廟地域の商業を振興するため、

  全市人民の生活を調整するために、

  夫子廟の貢院街の海同春旅館の跡地並びに

  市府路の永安自動車商会の跡地と

  永安里の全部の家屋を使い、

  人民慰安所を二ヶ所設立しようと思っており、

  いま改築工事中であり、

  竣工次第開業する予定です。

  すでに各管理機関に報告した他に、

  この文書をもって報告いたします。

   注:特務機関の委託ですから明らかに軍の関与です。

 

現在判明している南京にあった慰安所の

名前を書きますが、氷山の一角でしょう。      

 日華親善館 皇軍慰安所 大華楼慰安所 東雲慰安所  

 青南楼慰安所 浪速楼慰安所 共楽館慰安所 

 菊水館慰安所 満月慰安所 鼓楼飯店中部慰安所      

 洋屋慰安所 珠江飯店慰安所 人民慰安所 

 故郷楼慰安所 上軍南部慰安所 上軍北部慰安所  

 桃花宮慰安所 芯香院慰安所