南京戦の期間と南京の地理的範囲

再び本題に戻ります。

ここで改めて南京事件を考えるための

色々な条件を再度確認しておきます

 

まず南京戦の期間です。

何時から何時までを南京戦と呼ぶのかです。

南京での被害を少なくするには

期間を短くすれば良いし、

被害を多く計算するには期間を長くすれば良いので、

考え方や解釈によって期間の設定はかなり異なります。

 

南京戦は第2次上海事変の延長の戦争です。

ですから上海戦からの時間的経過を整理をして見ます。

 

●第2次上海事変の始まり       1937年7月7日

●海軍の南京への無差別爆撃の始まり      8月15日

●日本軍が首都南京へ向けて進撃開始      11月15日位

●天皇が南京攻撃の命令を出した      12月1日

●中支那方面軍が南京戦区に突入した    12月4日前後

●南京戦の終了時機  南京が陥落した   12月13日

●南京に自治委員会が出来た時    1938年1月2日

●中支那方面軍が戦闘序列を解いた日    2月14日

●傀儡政権・中華民国維新政府が成立      3月28日

 

このような時間系列になっています。

そうすると南京戦の時期は

人によって解釈が異なります。

南京事件がなかったと主張する人は

被害を少なくするため、

短時間にすればよいので次のように主張します

◎開始  

 中支那方面軍が南京戦区に突入した      12月4日前後

◎終了  

 南京戦の終了時機  南京が陥落した     12月13日

 

又最大に長期間に解釈する研究者は

◎開始  

 第2次上海事変の始まり       1937年7月7日

◎終了  

 傀儡政権・

 中華民国維新政府が成立した日   1938年3月28日

 

このように南京戦の前提が異なりますが、

このホ-ムペ-ジではあまり

期間を限定しないで書いております。

理由は色々な事件は何時始まって、

いつ終ったのか判別できないからです。

 

◎開始  

 多くの忌まわしい事件は日本軍の

 上海上陸後からすぐ始まっています。

◎終了  

 南京戦が終了しても

 色々な事件は続いています。

 南京に傀儡政権ができてからも

 麻薬など事件は拡大しています

 

南京の地理的な範囲ですが、

地図の上でどこを南京と限定するのかでも

被害の規模は変わります。

南京事件を小さく見せようとする人は、

城壁に囲まれた南京城内のみを

南京と主張しています。

極端な意見は、その城壁の一部である

「国際難民区」を南京と主張している人もいます。

難民区に避難した人たちが

20万~25万人ですので、

南京の人口を20万人と主張しています。

このことは後で詳しく書きます。

 

中国軍は南京を守るために

第一次・第二次防衛をかなり広く設定し

多くの軍を配備していました。

さらに直接の防衛陣地は

城外に多くありました。

必ずしも南京城内で

戦闘が行われたわけではないので、

南京戦を考えるとき、攻防戦がおこなわれ、

陥落後に日本軍が占領した地域を

南京戦区と呼ぶのが妥当でしょう。

そして多くの事件も広い地域に分散しています。

中国の行政区では市の下に県があります。

実際には行政区としての

南京市は南京城内・城区(南京特別市)及び

近郊6県(六合県・江浦県・江寧県・

凓水県・句容県・高淳県)に及びます

その6県にもそれぞれ県城と農村部があります。

全部合わせた地域を行政区の南京と呼び、

その面積は東京・埼玉・神奈川を

合わせた位のかなり広い面積です。

 

肝心の南京城ですが、

明王朝の時代に20年かけて作られたもので

16の門があり高さ20メ-トルの城壁に囲まれていて、

その城壁は、長さ34.2キロでだいたい

東京の山手線と同じ長さです。

ですから現在の山手線内の人口を考えてみると、

南京城内にも相当の人口があったことが

想像できるでしょう。

近郊6県を含めた行政区の地図を掲載します。

南京城内は斜線の部分ですからほんの僅かな事が分かります。

 ナンキ南京全図

 

上記のように中国軍の防衛線が郊外にあったため、

事件も狭い南京城内より

周辺地区で多く発生しているのは当然の事です。

 

つぎは南京の中心、南京城まで拡大した地図です。

ナンキ南京城区地図

 

キザキザ(凸凹)の線で囲んだところが南京城です。

その中ほどに「国際難民区」があります。

国際難民区ついては後の方の項目で詳しく書きます。