手帖の記録 昭和14年

「昭和14年」

1・1  

 南方堆土上にて

 東方に向ひ万歳三唱遥拝す

1・3  

 本日紙坊鎮駅週間衛兵の勤務に服す  

 鉄道警備隊なり 

 昨年も正月3日より衛兵にて

 運の悪い廻り合わせなり

1・9  

 下番となり部隊に帰へる 

 根岸曹長以下大正11年兵帰還に決定

 突然自分が帰還兵の内

 湾岸警備の藤井上(注:藤井上等兵)の交代に

 原上(注:原上等兵)を連れて行き

 藤井上を南京まで引率する

 命を受く(連絡を含み)

 5・30頃夕食もせず急に出発となり

 武昌7時到着

 漢口に渡り

 朝隆丸に乗船す8・30

 あまり急いて目を回す 

 船倉に寝る寒し

1・10 

 自炊 8時出発

1・11 

 九江上陸千田兵站宿舎に寝る 

 連絡船は15日迄無き由

1・14 

 1700ときわ丸に乗船

1・15 

 0800出発1800安慶着 

 清水部隊に連絡す

 新溝とのことなり 

 増田兵站に宿る

1・16 

 未明江上船舶班の共栄丸に乗船

 0900出発 香口に1600着

 皆元気なり 会食をやる

 高橋中尉、小室准尉、麻生軍曹を始め

 皆元気なのに驚く

1・17 

 0900藤井上、高見沢伍(注:高見沢伍長)、

 市川上と共に共栄丸にて出発

 1400安慶着 増井兵站に宿る

1・19 

 博洋丸に乗船す

1・20 

 出航蕪湖止り

1・21 

 1時南京上陸 

 材料監視隊に当着 

 藤井上を宮前准尉に引渡し任務を全うす

1・24 

 帰還兵出発す

1・25 

 到着日より朝夕2回の連絡船に依り

 明日漢口行の便ありと

1・26 

 朝出発下関より温洲丸に乗船す 

 宮川軍曹外8名と共に

1・29 

 九江到着 

 ポンポン船にて第五米丸に乗換る

1・31 

 1530漢口着 

 武昌に渡る 

 2100本隊に着く

2・4  

 週番下士官勤務に服す

2・6  

 調子悪く福田伍長に交代せしめらる

2・9  

 出征以来の高熱出る39度3分

 1月初めよりの勤務に引続き

 連絡の為め風邪を無理せし為めならん

 声出ず弱る

2・10 

 又 伍長に進級の命令出る 

 中隊10名中我小隊5名を占む

 内通信にて松浦、鈴木の2名 

 先に高村、横田、古矢の3名あり

 かくも優秀なる人多き班を

 指揮する立場にある自分は

 我不肖を思う時益々御奉公の

 念を強むるのみなり

 小隊長高山少尉以下33名、

 車両伍長2、他7名、観測曹1、伍3、他3名、

 通信自分外、伍5、他10名なり

 何と言っても中隊一の優秀なる小隊なり

 感謝にたえず

 殊に松浦、鈴木の2名は適任証を持たず

 本当に衆に範たる誠心誠意の人なり

 我通信班にあるを誇りとす

(手帖かはる)

 

ここまでが個人手帳に書かれたものです。

この先は正式な従軍手帖に書かれたものです。

 

2・16 

 週番勤務に服す

2・17 

 戦砲隊出発す 

 武昌に至り船舶にて○○に向ふ

2・18 

 命令変更 

 夜半に至りほとんど睡眠を取らず

2・19  

 7時出発武昌口の十二号桟橋より

 良友丸(3200屯㌧)に乗船 

 13時30分出発

 黄石港1945到着

2・20 

 7時45分出航 

 九江13時30分到着 

 宿営す

2・21 

 九江新宿舎に入る 

 江岸警備隊と合す 

 毎日雨なり

3・1  

 九江出発 

 九江星子道を行軍

 盧山を迂回し徳安手前七里半

 熊庄附近に露営す

3・3  

 熊庄出発 雨 

 泥寧激しく全くの泥鼠となる 

 寒気も激し

 南尋鉄道(道路化せるもの)を南下 

 官家に露営す

 途中乗用車を徳安に止む

3・4  

 出発 

 予定集結地山口舗を過ぎ

 祝家山東側に露営

 相変わらずの雨泥 

 車両を引上げて

 ぬかるみの上に天幕を張る

 豪雨防ぎようもなく

 腹の芯までビショ濡れとなり全く生気なし

 久し振りにて弾の音を聞く 

 寒気激し

  本人注:この頃、赤弾青弾等の

      我々のガス弾に敵弾が当り、

      皆 やられたが一時性のガスのため

      被害が少なかった。

3・8  

 高家?北側に2班に別れ前進す

 (永修車站より右折)

 相当銃砲声あり 露営

3・12 

 05時起床 

 観測所に移動す 

 雨にて困難を窮む

 宿舎は九尺七間茅ぶき

 毎日通信網構成或は壕幕舎等仕事に追はる

3・17 

 101の一部渡河(支流)の為め砲

 兵活動し完全に敵を制圧す

 我等遠戦砲兵は本夕撃たず

  注:遠戦砲とは長距離を撃つ砲

3・20 

 我部隊射撃開始 

 午后4・30全砲兵も活動し

 雨の修水河畔を打揺がす

 (300門位と予想す)

 歩兵も全線に亘り渡河を開始

 全部成功す 

 ズブヌレの戦闘夜半に到る

3・21 

 前6・30より引続き攻撃をす 

 前線進み午后に至り撃止 

 既に軍橋出来たり

3・22 

 追撃準備の為め

 高家?に移動し出発用意なす

3・23 

 出発 悪路を行軍 

 夜1時頃徳安到着 

 雨の天幕露営

3・24 

 猛烈な風となり

 天幕も吹き飛ばされる程であった

 昨日昼間の暑さに引換え

 激しき寒さとなった

3・25 

 編成替をなし出発す 

 虬津市東北約4km倪庄に

 永修河橋梁架橋中の為め止まる

3・26 

 突然6師団配属となり 

 明早朝若渓に向ひ進発と

 中隊長より達せらる

 直后夕食時又々突然急に出発となり

 21時出発 

 0030橋梁破壊されある為め露営

 又雨に降らる(虬津市-白楂街-若渓)

3・27 

 戦車壕多き道を行軍 

 2100頃若渓少し手前に止まり露営 

 銃砲声を聞く

3・28 

 前進 依然悪路行進 

 武寗約2里手前より徒歩前進し 

 砲列陳庄 観測所張林南側

 久し振りで険しき山に登る 

 軍は武寗へ向ひ攻撃急なり

 又も露営は雨に悩まさる 

 本日は松永准尉に会う

 (本人加筆:兵器学校本部付)

3・29 

 観測所にて目賀田少佐殿に再会す

 (本人注:兵器学校本部付)

 武寗へ友軍0145入城せり

 我隊は武寗に集結西進準備とのことなりしが

 突然 夕方になり 

 徳安に集結 

 澄田少将の指揮下に復帰のこととなる

3・30 

 早朝出発物凄き悪路にて全く疲労す 

 修水支流河畔庄下に露営す

3・31 

 早朝出発若渓を過ぎ三秘橋に露営 

 又々夜になり豪雨に見舞われ

 2時頃打壊れた家を求めて入る

4・1  

 虬津市徳安間通行止めとのことにて

 虬津市手前にて露営

 天幕を張る最中に

 早や毎日の如く雷雨に襲わる 

 衛兵司令に服務す

 雨と寒さの為め閉口す

4・2  

 昨一晩中豪雨に打たれ乍ら

 夜を明かし午后6時下番となる

4・3  

 明くるば増水にて

 山の中腹に張れる天幕も

 将に浸水しそうになり山上に上ぐ

 修水は氾濫し一面の湖になる

 道路は沈み2大隊の自動車10輌を

 間に合わずして架橋のみわずかに

 見える山腹を崩して道となし

 自動車を山上に上ぐ

 神武天皇祭 遥かに故郷を拝す

 大隊長大学選科受験東京に行かれるとのこと

4・4  

 大隊長見送りだけ

 又ゴム舟にてまず虬津市に向わる

 (本人注:大隊長は中尉の時は

 兵器学校本部付 陸大選科受験の為)

4・6  

 出発 

 途中虬津市徳安間通行禁止解除となり

 徳安に行進し徳安到着す

 九江より漢口に集結とのことなり

4・8  

 0700出発 

 陸路九江に向ふ 

 戦砲隊等は汽車にて

 昨日より出発を開始せり

 往路を行軍し九星道を前進

 夜半九江に着く

4・12 

 0800九江埠頭に於て天洋丸(6843屯)に

 積載開始 

 5時半頃出発す

4・13 

 漢口着

4・14 

 卸下開始 

 日没宿舎に付く

4・17 

 漢口市内を見学す 

 支那人の生業に帰するもの多く雑踏する 

 建物は相当なり

 東京そばの高きに驚き

 北京料理を1テ-ブルやる

 唯奇にして美味ならず

4・20 

 漢口出発

 徳安(江北徳安)に向ひ出発す

 研子崗着舎宿す(約70K)

4・21 

 出発夏店に露営

4・22 

 花園着露営

4・23 

 徳安着露営

4・28 

 出発 馬坪を経 

 浙河道を進み中間に露営

 今回砲兵にて歩兵を編成し

 歩兵と行動を共にすることとなり

 自分は分隊長を命ぜらる

 (選抜小銃隊)

4・30 

 昨日軍装検査 

 本朝7時出発 

 浙河に集会す

 大隊長は新井大尉 

 中隊長大田中尉 

 小隊長久能木少尉

 我が分隊は軽機を有し

 第4中隊第1小隊第2分隊となる

 小銃1に150発、軽機1に5000発携行 

 糧秣は乙を2日分 随分重い荷であった

 (本人注:携行糧秣は内容によって

 甲と乙の2種類あった)

 渡河をし鉢巻山、剣山の警備を

 歩兵より申し受く

 敵に近接せる為め全員にて

 夜間は配備に付く

 昼間は相当な暑さになるも

 朝夕可也寒く睡眠は昼間とる

 敵の姿を見ラッパの音を聞く

5・4  

 前1時頃巡察に起きる 

 月蝕物凄く歩哨犬を見間違えて

 発砲する程緊張せり

5・8  

 歩兵に申送り浙河に集結す 

 昨夜敵襲あり 

 睡眠を得ず

 昼食後出発 

 塔児湾着 

 露営の予定なりしも9時出発し 

 前2時頃七姑店市に露営

 8時出発厲山にて昼食 

 疲労甚し 

 追撃前進の命にて前進

 夜10時頃突然厲山警備の命令来たり 

 引返へし城外に露営

5・10 

 8時警備に付く 

 火事各所にあり消火す 

 糧秣なく探し集める

5・16 

 厲山警備を引上げ浙河に集結せんと

 出発せしも対岸の兵站へ我小隊は援護に残る

 各部隊は続々引上ぐ

5・17 

 午后出発 浙河着 

 撰抜小銃大隊河原に集結す

5・18 

 16時解散式を行ひ各原隊に復帰す

 人員器材異状無く 

 未だ前進の疲労癒えずも

 歩兵の苦労を体験せしは

 全く面白き尊き思い出とならん

5・19 

 午后突然出発し応山手前にて露営

5・20 

 出発せしも雨にて通行止となり

 応山城外に露営

5・21 

 0900出発 

 応山を経て広水市にて露営 

 浅き河原なり

5・22 

 広水市露営地区内に入るも

 我小隊は家なく露営す

 宣撫工作完備せる為め

 1本の薪も得られず 

 我々には芳しからず

5・24 

 分任官を命ぜられる 

 給養も全部やることとなった

 上海上陸以来通信掛として

 生死を共にした我観測小隊と

 別れなければならなくなった

 思えば感慨無量である

 今後は新任務に中隊機関に入り

 大いに働かねばならない

 (本人注:分任官とは国家の代理として

 兵隊に給料を支払う係)

6・1  

 軍曹2等級に昇級す

6・7  

 広水より汽車行きにて設営の為め先行 

 攝口より軽列車に乗換え漢口監視隊に到る

6・8  

 早朝武昌に渡り新警備地区に向ふ

 武昌紙坊間なるも既に駐軍なく

 土民は逃げる有様なり

 金牛の委員会会長は殺されたる由

 武昌道は交通の安全性保障し難き状態

 葛店武昌道は部隊にても

 襲撃されるとのことなり

 紙坊等は遊撃隊の巣なりと

6・9  

 昨日と同じく行動す 

 貨車団到着す 

 漢口 

 十日先行せる我々は本隊に合し宿営す

6・11 

 門橋渡河武昌に渡る宿営

6・12 

 偵察

6・13 

 戦砲隊到着

6・14 

 鄭家店道上警備地区に移動

6・15 

 天然痘発生しある為め

 金口道に移り警備地区に入る

 中隊は四段村と言う小部落

6・29 

 0400頃歩哨早苗上敵に狙撃され

 上膞を貫通銃創 

 直ちに応戦し撃退し配備を解く

7・17 

 中澤以下13名入隊す

7・29 

 川村軍曹以下13名帰還す

8・3  

 工藤中隊長大尉に進級転出 

 太田中尉赴任す

9・12 

 6時出発 威寧着 露営

9・14 

 出発 楠林橋に到る 

 糧秣を補給す 敵襲あり

9・16 

 出発 石城湾手前に到着す(王家)

9・21 

 出発 途中敵襲に遭いつつ

 通城城外東側に到る

9・22 

 出発 鯉港に到る 

 4時より夜半2時に到る

9・23 

 攻撃 観測所

9・24 

 山背に進撃し鯉港に引返す

9・25 

 通城城外に到着

9・26 

 城内に舎営す

9・28 

 中隊主力は麦市に向ふ途中2回敵襲に遭う

 敵の中にて炊事 

 火を考慮し集積所を探し乾パン受領分配す

10・7 

 通城に帰る

10・12 

 0730出発 

 白霓橋に到り露営す

10・12 

 楠林橋に到り露営

10・13 

 糧秣を補給

10・15 

 糧秣を補給

10・17 

 楠林橋出発連隊へ先行す

 

昭和14年の手帖はここで終っています。