南京への渡洋空爆 2
空爆に関しては、
駐日アメリカ大使のジョセフ・C・グル-は
中国の領事館員や宣教師などから
多くの報告を受け取っていて、
次の報告書を本国の国務省に送っています。
少し長くなりますが、南京空爆の証拠になりますし、
死亡者は南京事件の犠牲者の数に入るのは
当然ですから転記します。
「日本軍による民間人の生命・財産への爆撃の一例」報告
8月24日 江蘇省南通
キリスト教の病院が爆撃される。
患者30余名と何人かの職員が死亡
8月26~27日 江蘇省南京
南京の貧民外街に爆弾が落とされ、
およそ100人の民間人が死亡、
その内50人は焼死によるもの。
この特殊な爆撃は、
8月15日以来南京に対して
連日のように行われてきた空襲の中でも、
最も酷いものであった。
9月12日 広東州恵州
アメリカ人伝道団の病院が爆撃される。
病院は3機によって爆撃され
重傷者が出、建物も被害を受ける。
施設には大きなアメリカ国旗が2本掲げられていた。
恵州には高射砲はなく、
病院は中国軍露営地からいずれも2マイル離れていた。
9月23日 河北省献県
フランスのカソリック伝道団
「光輝なる血尼僧団」の施設に対して、
30発の爆弾が投下された。
施設はフランス国旗を掲げ、
しかも日本軍の前線から40マイル離れていた。
9月24日 江西省南昌
メソジスト、米国監督教会伝道団の
女性海外伝道教会に属する
アイダ・カン婦女子病院の施設内
および付近に4発の爆弾が落とされた。
被害は病院の職員が建物を
放棄せざるをえないほどである。
9月25日 江蘇省南京
市街に対する重爆撃。
攻撃目標は政府の建物とともに
中央大学・中央病院も含まれる。
これらの地区は城外にある
軍の飛行場・兵器庫とは関係ない。
数百人の非戦闘員が殺され、
数千人の負傷者が出る。
9月25日 湖北蘇省漢口
爆撃が兵器廠に限定されないため、
漢江対岸の住宅区域に相当の死傷者を出す。
アメリカ総領事館員が現場を視察する。
10月2日 広東省広州
アメリカ総領事が得た
信頼すべき確認済情報によれば、
中山大学が爆撃され、
さらに広州北方50マイルの鉄道からも離れた
全くの無防備都市である清遠も爆撃された。
これは、広州および近接地区、
鉄道に対する爆撃のあいだに行われた
非軍事施設の損害と市民生活の
破壊についてのほんの一例にすぎない。
しかし、事例は鉄道や軍事目標から離れている
無防備都市の町でさえ
爆撃されることを示している。
10月14日 安徽省蛙埠
駅と市場・居住地区が
2編隊の爆撃機に襲撃されたのを
スタンダ-ド石油会社の従業員が目撃。
市民88人が死亡し、72人が負傷。
スタンダ-ド石油会社は約3万元の損害を受ける。
10月25日 広東省松維
重要ではない鉄道沿線にある
非武装都市、住宅密集地にある駅が爆破され、
市民14人に死傷者がでる。
アメリカ人宣教師による
写真を添付した報告による。
10月29日 江蘇省松江
メソジスト・エピスコパル宣教団が爆撃される。
女学校が破壊され、
他の建物も被害をうける。
施設の近くにはいかなる中国人もおらず、
かつ建物にははっきりと星条旗が描かれていた。
11月2日 江蘇省松江
アメリカ教会宣教団使施設が爆撃され、
破壊される。
11月12日 江蘇省無錫
アメリカ教会宣教団に属する
聖アンドリュ病院が爆撃される。
上記の3件はこの時期に南京-上海地域の
広範な爆撃の事例である。
11月13~14日 江蘇省蘇州
アメリカ人宣教師からの報告によれば、
大変な爆撃で市街は
市民と中国人難民であふれていた。
11月24日 広東省広州
今回の空襲は、
これまでで最も破壊的であったと、
アメリカ領事館が報告している。
湖南路の橋に対する爆撃中、
3発の爆弾が労働者住宅に落下し、
合計62人が死亡し、150人が負傷した。
11月24日 江蘇省南京
飛行機20機が中央市場を爆撃。
爆撃は国立博物館の隣や、
フランス・カソリック宣教団施設、
および露天商街の中に落ち、
およそ40人の市民が殺された。
● 10月5日
国際連盟に加盟していなかったアメリカも
ル-ズベルト大統領がシカゴで
日本を非難し、隔離する演説をした。
隔離演説です。
「隔離演説」
宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく
婦女子をふくむ一般市民が、
空中からの爆弾によって
仮借なく殺戮されている
戦慄すべき状態が現出している。
このような好戦的傾向が
漸次他国に蔓延するおそれがある。
彼らは、平和を愛好する国民の
共同行動によって隔離されるべきである。
アメリカ大統領の非難演説に対し、
10月6日外務省の河相達夫情報部長は
次のように反論しました。
● 反論
世界は現に「持てる国」と
「持たざる国」との争いがあり、
資源、原料分配の不公平が
やかましく論ぜられている。
もしこの不公平が是正されず、
「持てる国」が「持たざる国」に対して
既得権利の譲歩を拒んだならば、
これを解決する道は
戦争による外ないではないか。
日本の外務省は、一度は堀内健介外務次官が
南京空爆の中止を表明しましたが
海軍の圧力を受け、態度を変更し
海軍に追従していくようになりました。
広田弘毅外務大臣は
10月9日次のような声明を発表しました。
● 広田外務大臣の声明
国際連盟は現に帝国が支那に於いて
執りつつある行動をもって、
9ケ国条約及不戦条約違反なりと断定し、
米国務省また同趣旨の声明を発したるが、
右は今次事変の実体および帝国の真意を
理解せざるより来れるものにして、
帝国政府の甚だ遺憾をするところなり。・・・・
帝国の対支行動は、
如何なる現存条約にも違反せず、
却って赤色勢力に操られ、
国策として執拗悪性なる排日抗日を実行し、
武力行使に依り自国内に於ける
日本の権益を排除し去らんとして
今次事変を招来せる支那政府こそ
不戦条約の精神に背戻し、
世界の平和を脅威するものと言うべきなり。
日本軍の空襲に恐怖を感じたラ-ベが
本国ドイツにだした報告書です。
● ジョン・ラ-ベの報告書から
南京の人口は、
私が7月に出発した時には、約135万人でした。
その後、8月中旬の爆撃の後で、
そのうち数10万人が街を離れました。
注:南京の人口が135万人と言うことが
書かれていることに注目してください。
当初陸軍はあまり拡大しない方針を採っていましたから、
海軍の方が先行して南京戦へと拡大したことになります。
9月22日の爆撃では難民収容所に爆弾を投下し
100人以上の死者が出たと言われます。
● L・Cスミス ロイタ-通信社
「中戦争南京大虐殺事件資料集・英文資料編」
爆撃後に下関の難民収容所に行ってみたところ、
その光景は目をおおうばかりで、
現場には犠牲者のばらばらになった遺体が
からみあったまま
かなり広範囲にわたって散乱していた。
多数の難民の住んでいたむしろがけの小屋は
爆撃で火がつき、なお炎焼中である。
その炎から出る煙は大きな柱となって
空に立ちのぼり、
そのあたりの何マイルも離れたところからも
目にすることできた。
爆撃は9月19日の第1次から25日の第11次まで行われ、
延べ291機(289機という資料もある)が参加し、
爆弾は355発(32.3トン)が使用されたといわれています。
● 南京市長 馬超俊の国民政府への報告書
11月4日付から
8月15日から10月15日までの
2ケ月間に65回の空襲があり、
被害は南京城区の全区域におよび、
市民(軍人を含まない)392人が死亡、
438人が負傷、
破壊された家屋は1949間(約7~800戸)に達した。
南京陥直後、
第13航空隊指揮官だった奥宮正武大尉が
戦死した搭乗員の消息を調査しました。
その時に書かれた記録です。
● この一連の調査中、
私は、市の内外を合わせて、
20数柱の遺体を発見することができた。
そのさい私の胸を打ったのは、
中華門の南方にある農村の墓地で、
立派な木製の棺に収められた九柱の遺体であった。
七柱は中攻の、二柱は艦爆の搭乗員たちであった。
首都の被爆で混乱を極めていたであろう時に、
人道的な見地から、
敵兵を丁重に葬ってくれた紅卍会の人々に
感謝せずにはいられなかった。
その頃城外で行き合った多くの
農民からは、敵意をまったく感じなかった。
また、城内の中心に近いところでは、
墜落した日本機が民家とその住民を
道連れにしたという悲劇も聞いた。
繁華街の人々も、親切に私の調査に協力してくれた・・・・
25日の爆撃目標になった国立中央病院には
以前に墜落した日本軍機から救出された
日本人飛行士も入院治療中だった。
注:逆の場合だったら日本人はどのように
敵の兵士を扱ったでしょうか
南京だけではなく
海軍航空隊による都市無差別攻撃は、
中国の60ケ所以上に及んだため
外国の新聞記者や映画カメラマンなどにより
世界中に知れ渡って行きました。
日本の新聞だけが「戦果」として
誇大に報道していたのです。
その結果、世界中から非難を浴び、
日本の外務省は困っていました。
● 外務省東亜局長 石射猪太郎の日記から
10月4日
日本の新聞はもう駄目だ
10月7日
世界は今や日本に向って
あらゆる言葉をもって非難をあびせている。
それは決して驚くことではないが、
憂うべきは日本自体の無反省だ
注:マスコミや国民の無自覚は当
時だけではなく、現在でも同じです。
日本の海軍省の記録では、
8月15日の渡洋爆撃から始まって、
12月13日の南京占領にいたるまで
海軍の南京爆撃は50数回におよび、
延べ参加機は900余機、
投下爆弾は160余トンに及んだとされています。
この空襲で上海を始めとした
周辺地区から貧困な層が南京に流入し、
逆に裕福な階層は遠隔地に避難をしたため
南京の都市機能は混乱し、
11月20日国民政府は首都を
重慶に遷都する事に決めました。
その結果南京の人口は南京防衛軍と
40~50万の市民や難民だけが残りました。
その後日本軍による無差別都市爆撃は
有名な重慶大爆撃になり、
そしてアメリカ軍による
日本各地への無差別爆撃へと続くのです。
余談ですがアメリカの日本への無差別絨毯爆撃は
1945年3月10日の東京下町大空襲が有名ですが、
その司令官はルメイ少将です。
戦後ルメイ少将が航空自衛隊の
育成に貢献したとして
政府(皇室)は勲一等旭日大綬章を与えています。
割り切れないものがあります。
当時は航空戦力は爆撃中心で
戦闘機による掩護や戦闘は
あまり考えられていませんでした。
そのため海軍の渡洋爆撃も
戦闘機の掩護なしに行われたので、
中国空軍のアメリカ製戦闘機による攻撃で
爆撃機は被害を受けています。
そこで海軍では戦闘機の必要性を感じ、
緊急に戦闘機開発に着手し、
96式及び0式(ゼロ戦)と呼ばれる
世界最高性能の戦闘機が完成したのです。
注:ゼロ戦は紀元2600年、
つまり昭和14年の完成です。