参謀本部の増派決定
9月に入り天皇の意向を受けて
上海に増派が始まりました。
● 9月6日
重藤支隊―台湾守備司令官重藤千秋少将が
指揮する台湾歩兵第1、第2連隊及び
華北から後備歩兵10個大隊等
● 9月21日
上海派遣軍として次の部隊が派遣された
9月27日から上陸
第9師団
10月1日から上陸
第13師団(特設師団・後備役兵を召集して
臨時編成した。高年齢である)
9月22日から上陸
第101師団(同上)
野戦重砲兵第5旅団
9月26日上陸
野戦重砲兵第15連隊(特設連隊・
本隊は近衛野戦重砲兵第8連隊)
第16師団 追加派遣
その他
● 10月上旬
参謀本部は杭州湾の上陸作戦を決定し、
第10軍が編成(軍司令官柳川平助中将)された。
第6師団
第18師団
第114師団
国崎支隊(第5師団の一部で、歩兵第9旅団長
国崎登少将指揮の歩兵第41連隊基幹)
● 11月5日
第10軍(司令官柳川平助中将)の
3個師団余が杭州湾北岸に奇襲上陸。
● 11月6日
「日軍百万上陸杭州北岸」の
アドバル-ンが上海にあがった。
● 11月7日
上海派遣軍と第10軍を合せて
中支那方面軍の編合が発令され、
松井石根大将が上海派遣軍との
兼任司令官になりました。
注:編合は仮の編成の事
戦闘序列は天皇が命ずる正式の編成
● 11月13日、
第16師団は白茆江に上陸成功
当初日本の参謀本部は
中国軍の力を余りにも過小に判断して、
簡単に終わらせる事が出来るという
非常に甘い判断をしていました。
ところが実際には中国国民政府の
70万人もの軍隊のト-チカ陣地は強固で、
民族意識の高まりからくる中国軍兵士の
果敢なる抵抗に日本軍は莫大な損害を出しました。
11月8日までに戦死9115名、
戦傷3万1257名と合計4万人を越えてしまいました。
第3師団や第11師団はほぼ全員が
補充兵と入れ替わるほどだったといわれています。
中国側の戦死者は25万人前後と言われています。
(石島紀之「中国抗日戦争史」)
準備不足で始まった上海戦は、
軍中央の制止にも関わらず
現地軍の暴走で拡大していきました。
大本営も引きづられて
結局拡大の方向に変化していったのです。
増派で優位になった日本軍が南京へ進撃を開始したとき、
予定外の暴走で食糧や準備が不足していた上に
今まで受けた損害から中国兵に対して敵愾心を持ったため、
民間人の殺害、略奪、強姦などが増えたのだと思われます。