第2次上海事変までの海軍の動き

実は日本軍内部では上海や南京に対する

攻撃をかなり早い時期から計画していたようです。

海軍の動きを書く前にそのことに触れます。

それから海軍の話に入ります。

 

● 日中歴史共同研究報告書・中国側の栄維木氏の論文

 すでに1936年8月に参謀本部が制定していた

 1937年度の対中国作戦計画のなかに、

 上海、南京を占領する計画が盛り込まれており、

 その主要な戦略構想は「第9軍(3ケ師団)を持って

 上海附近を占領する・・・・

 新たに第10軍(2ケ師団)を杭州湾に上陸させて、

 太湖南側から進め、

 両軍策応して南京に向かい作戦し、

 上海、杭州、南京を含む三角地帯を占領、

 確保するよう計画した」というものであった。

 盧溝橋事変が発生した後

 日本軍は基本的にこの作戦計画に従って

 行動したのである。

  注:日本の防衛庁防衛研究所戦史室

    「支那事変陸軍作戦 1.」を参考

  注:日中歴史共同研究は2006年に

    安倍晋三総理と胡錦濤国家主席の

    合意で始まりました。   

    日本側座長は北岡伸一東大教授、

    中国側座長は歩兵社会科学院近代史研究所長です。

 

当時の上海は海軍陸戦隊が統治していました。

その頃は国家の軍事予算の面でも

陸軍と海軍の対立があり、陸軍優位でした。

ロンドンの海軍軍縮会議で

艦船の制限が議題になっていたことから

海軍の焦りがあり、

海軍では航空機による予算拡大を計画していました。

陸軍ではその頃「次は上海で海軍が何か事を起こすぞ」と

噂をされていました。

そこでその頃の海軍の動きを時系列に見てみます。

 

まず1936年です。

1936年は海軍の画期的な攻撃機が完成しました。

96式陸上攻撃機です。

この陸上基地発進の

長距離攻撃機が完成したことから

海軍の航空戦略は大きく飛躍しました。

9月23日夜、第3艦隊軍艦出雲の水兵が

中国人から撃たれる出雲水兵射殺事件が起きました。

それをきっかけに軍令部と海軍省は

協議の上、出動を指令し

対支時局処理方針を策定しました。

 

● 出動指令

 1. 第8艦隊、第3及び第22駆逐隊を

  急速佐世保に急行、上海方面に回航させる

 2. 呉鎮守府特別陸戦隊1個大隊を上海方面に派遣する

 3. 第11航空隊(大型攻撃機4、中型攻撃機6、戦闘機12)を

  特設し、台北に集中させる

 4. 上海公大飛行場の準備を指示する

 

● 9月26日 対支時局処理方針

 第二 処置

 1. 速やかに対支膺懲の国家的決意を確立し

  特に陸軍に対し速やかに海軍と

  同一歩調を執らしむるごとく努む

 2. 対支準備を整えるとともに、

  すでに発令の増派兵力の威圧により

  外交交渉を促進せしむ

 3. 右要求に応ぜざる場合

(1)上海の固守(海陸軍協同)

(2)青島の保障占領(海陸軍協同)

(3)中南支の要点の封鎖(海軍兵力)

(4)中南支航空基地並びに

  主要軍事施設等の爆撃(海軍兵力)

(5)北支に陸軍の出兵

 

そして1937年に入ります。

1月には海軍航空隊は爆弾を装備して

何かの際にすぐ出撃できる体制をとりました。

 

● 1月8日、海軍中央が「対支時局処理方針」決定した。

 2. 特別陸戦隊 

  基本兵力は上海2000、漢口200とし、   

  当分の間、上海に200、 漢口に100増強す

 4. 内地待機兵力は左記の外これを解く

  (1)11,12,13航空隊および

   各鎮守府特別陸戦隊各1個大隊の

   準備は当分そのままとする

  (2)第1、第2航空戦隊には爆弾および

   所要兵器を搭載のままとし

   急速派遣に応じ得しむ

  (3)第8戦隊、第1水雷戦隊は

   対支応急派遣に応じ得るごとく

   必要なる準備をなし置かしむ

 5. 飛行基地の整備

  (1)台北、済州飛行基地はこれを整備し、

   応急使用可能の状態にたもつ

  (2)上海公大飛行基地の

   急速整地準備を完成しおき、

   応急使用を可能ならしむ

 

7月7日に盧溝橋事件が発生すると

海軍はすぐに行動を起しています。

盧溝橋事件の翌日には早くも、

南京渡洋爆撃(8月15日)の搭乗員が

出撃準備の命令を受けています。

  注:津航空部隊土屋誠一回想録から

 

● 7月11日、「特設連合航空隊」2隊を編成

 第一連合航空隊 司令官:戸塚道太郎大佐

  木更津航空隊 司令:竹中龍造大佐

  鹿屋航空隊  司令:石井芸江大佐

 第二連合航空隊 司令官:三並貞三大佐

  第12航空隊  司令:今村侑大佐

  第13航空隊  司令:千田貞敏大佐

   注:海軍は盧溝橋事件の直後から

     南京への爆撃準備を

     始めていたことになります。

 

● 7月12日、

 海軍軍令部は「対支作戦計画内案」を策定する。

 一.作戦指導方針

  ① 自衛権の発動を名として宣戦布告はおこなわず、  

   ただし彼より宣戦する場合

   または戦勢の推移によりては

   宣戦を布告し、正規戦となす

 二.用兵方針

  ① 省略

  ② 戦局拡大の場合おおむね

   先方針により作戦す(第二段階)

   (ロ)中支作戦は上海確保に必要なる

    海陸軍を派兵し且主として

    海軍航空兵力を以て中支方面の

    敵航空勢力を掃蕩す

   (ホ)封鎖線は揚子江下流および

    浙江沿岸その他わが兵力所在地付近に於いて 

    局地的平時封鎖を行い支那船舶を対象とし・・・・ 

    ただし戦勢の推移いかんによりては

    地域的にも内容的にもこれを拡大す

   (ル)上海陸戦隊は現在派遣のものの外

    2ケ大隊を増派し、

    青島には特別陸戦隊2ケ大隊を派遣す、 

    何れも其れ以上に陸戦隊を

    必要とする場合は一時艦船より揚陸せしむ

   (ヲ)作戦行動開始は空襲部隊の

    おおむね一斉なる急襲をもってす。

    第1、第2航空戦隊をもって杭州を、

    第一連合航空をもって南昌、南京を空襲す

    爾余の部隊は右空襲とともに

    機を失せず作戦を完了す。

    第二連合航空隊は当初北支方面に使用す。

    空中攻撃は敵航空勢力の覆滅を目途とす。

 

● 海軍軍令部の「対支作戦計画内案」に対する

   第三艦隊司令長官長谷川清中将の意見書

 武力による日中関係の現状を打開するには、

 現中国の中央勢力を屈服させる以外道はなく、

 戦域局限の作戦は期間を遷延し、

 敵兵力の集中を助け、

 作戦困難となる虞大である。

 故に作戦指導方針関し、

 「支那第29軍の膺懲」なる第1目的を削除し、

 「支那膺懲」なる第2目的を

 作戦目的として指導されるを要し、

 用兵方針についても

 最初から第2段階作戦開始の要がある。

 更に中国の死命を制するために

 上海、南京を制するを最重要とし、

 中支作戦は上海確保及び南京攻略に

 必要な兵力とし、

 中支那派遣軍は5コ師団を要する。

 又開戦当初の空襲作戦の成否いかんは

 その後の作戦の難易遅速を

 左右するかぎであるから、

 使用可能の全航空兵力をもってし、

 第2航空戦隊の当然これに含ませる要がある。

 

● 7月19日 

 中国現地の第三艦隊司令長官長谷川清中将は

 意見書の通り上記作戦行動を内示した

 

● 7月27日、

 海軍省と海軍軍令部は協議し

 「時局処理および準備に関する省部協議覚書」を決定した

 1.方針

  事態不拡大、局地解決の方針は以前堅持するも、

  今後の情勢は対支全面作戦に

  導入機会大なるをもって、

  海軍としては対支全面作戦に対する

  準備を行うこととす

   注:表面的には不拡大を装いながら   

     南京への全面戦争を

     準備していたことが分かります。

 

● 7月28日 

 軍令部は第4水雷戦隊を編成して

 第2艦隊に編入し、新しく組織された

 第9戦隊および第3水雷戦隊と

 連合艦隊付属の第12戦隊の3個戦隊を 

 第3戦隊に編入して戦力を大幅に増強した。

 

● 8月8日 

 木更津航空隊5個分隊は

 大村基地に進出し出撃待機をする。

   注:木更津航空隊第2中隊長田中次郎大尉の回想

      (笠原十九司「海軍の日中戦争」)より

 同日   

 鹿屋航空隊、18機も台北基地に移動し出撃準備に入る

 

● 8月9日、大山勇夫中尉殺害事件

 

● 8月10日、

 呉海兵集団の呉第2特別陸戦隊が出航、

 13日から上海での戦闘開始

  注:大山事件の前日に出撃準備し、

    翌日に出動したことは   

    あらかじめ準備されていた謀略

    うかがわせます。

 

このように政府や陸軍が和平工作をする中、

海軍は拡大の準備を秘かに行い、

そのさなかに和平交渉を邪魔するように

大山中尉事件は起こりました。

 注:8月4日 船津辰一郎が和平の為派遣

   8月7日 外務省作成の「日華停戦条件」決定   

       その後本格交渉が進む予定だった

   8月9日 大山中尉事件

 

次回は大山中尉の殺害について書きます。